2009年3月アーカイブ

 「じゃんけん」は、子どもの遊びだと思っていたら、なんとそれは「日本人の知恵」(中央文庫)が生み出したものだと言うので驚いてしまった。
 著者は昭和36年に朝日新聞大阪本社の呼びかけに応じて、集まった4名の文化人(林屋辰三郎・多田道太郎・梅棹忠夫・加藤秀俊)である。
 <じつは、じゃんけんこそは、日本の倫理学・論理学・組織論等を究めるうえできわめて重要なカギなのであり、日本人の思想を論じるにあたって絶対に逸することのできぬ要である。>
 前置きにそう書かれてしまっては、本屋の立ち読みで済ますわけにも行かず、つい求めてしまったのが運の尽きで、たちまち夢中にさせられてしまった。それで、小欄に紹介することにした。
 ルーツは中国の「拇拳」「酒会」と呼ばれ、二人が向かい合って、酒宴の座興であったが、江戸時代に日本に伝わってきて「じゃんけん」が生まれたようだ。日本人の考え出した「じゃんけん」の特徴は、三すくみにあるという。つまり、イシはハサミに勝つがカミに負け、カミはイシには勝つがハサミには負ける。しかし、なぜそれが日本の倫理学・論理学・組織論になってしまうのか、その理由を以下のように解説してある。
 <三すくみというのは、絶対的権威の否定である。三者のうち、どれがいちばん強いというものはあり得ない。トランプでいえば、エースのような切り札は、存在しない。オールマイティの拒否である。これは日本人の基本的考え方に通ずるもので、だからこそ"三すくみ"思想は土着化しえたともいえる。とにかく、ある場合には強い力を発揮するものでも、事情が変われば、イカれる。条件、環境の変化で一つのものがプラスにもマイナスにもなるという。状況主義の論理なのである。これを倫理学としてみるなら、どんな強いものにも弱点があるということの認識だ。およそ世の中に完全無欠な人間など存在しないということを意味する。そして、強者にも弱点があるということを裏返していえば、いかに弱者でもなんらかの長所をもっているということである。>
 さらに、じゃんけんの妙味は「アイコ」があること。アイコのお陰で「心理的沈静作用が起こるのだ」と言われると、妙に納得させられてしまう。
 ところで、一昨日、アメリカのDodger Stadiumで開催されたワールドベースボールクラシック(WBC)の決勝で、最終回に韓国が同点になったのを「アイコ」とすれば、それによって両国の間で「心理的沈静作用」がもたらされたことは疑いないだろう。
  「アイコ」になったことで、イチロー選手に「ぼくに神が降りてきて、決勝打を打たせた」と言わしめるようなドラマが起こった。そうやって考えると、「アイコ」にはドラマを引き起こす作用があると言えまいか。「じゃんけん」は神聖な遊びなのかも知れない。
 つい先日のことであるが、感動的な内観をしたご婦人から一枚の葉書が届いた。当方の宛名とご自分の住所、氏名はきちんと記してあったが、どういうわけか、裏は白紙なのである。ひょっとしてあぶり出しになっているのかと思って確かめてみたが、そうではなかった。きっと内観の感動が深くて言葉にならなかったのだろう。彼女の心奥に耳を澄ませながら白紙の葉書をファイルに綴じておくことにした。
 また、内観を体験した後、長年にわたって築いてきた地位のある仕事をなげうって、内観研修所を設立したいと言い出し、その準備に取りかかっているという男性は葉書いっぱいに現在の心境を綴ってきた。
 「お元気ですか。この二年、多くの時間をいただき、自分の半生を振り返ってきました。出会った多くの方々、多くの出来事を振り返ってみました。遠藤周作先生のような立派な人生ではありませんが、やはり大いなる"いのち"の働きがあったことは、感じられます。」という文面に並べて遠藤周作氏の一文"後ろから押すもの"を書き添えてあった。
 <神様というのを二通り考えていただきたいのです。常に目の前に灰皿があるように、あそこに神がいる、と神の存在を見つけるものではないということがだんだん私にはわかってきました。後ろのほうから、いろんな人を通して、目に見えない力で私の人生を押していって、今日この私があるのだということがわかってきたのです。後ろから背中を押しているのが神なのです。もう一つは、自分の人生を単独な自分のみの人生と考えないで、父親、母親をはじめいろいろな人を合わせた総合体としての場で自分が成立しているのだということを考えたのです。(中略)神は存在でなくて働きなのです。>
 遠藤周作氏と言えば、比喩好きでも知られている。砂浜を歩いているときに体験したことを、息子に向かってこう言ったそうだ。
 「5分も歩いていたら疲れてしまった。そこで、舗装道路にあがることにした。振り返って、今まで歩いてきた砂浜を見ると足跡が残っていた。舗装道路を歩くのは楽だが、あれは足跡が残らない。会社務め、宮使えするのは、舗装道路を歩くようなものだ。」
 男性が宮使えを辞めた理由がわかったような気がした。
 「愛」のように、ジャンルを越えて多くの"かたりびと"を得ている言葉が他にあるだろうか?哲学者はもとより、文学者、宗教学者、心理学者など、「愛」について語る人を挙げていけば、きりがないほどである。
 宗教学者のひろさちや氏によれば、キリスト教と仏教では、「愛」についての捉え方がまったく違うというのである(「日本語になった仏教のことば」講談社)。
 <キリスト教は、「愛の宗教」だと断言してよい。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエス・キリストが言っている。>と、氏は述べたあと、<仏教においては、愛は否定されている。仏教においては、「愛してはならない」と教えられている>と言うのである。両者においては、「愛」の考え方が違うようなのだ。
 どのように違うのか、ひろさちや氏が紹介する「愛」についての仏教の考え方とは、次のようである。
 <愛は、まず第一に本質的に自己愛である。親が子を愛するときに、どこかに子を自分の所有物と見ている気持ちがある。恋人に対しても、愛は相手を束縛してしまう。相手が自分の思う通りにならなければ、逆に相手を恨みはじめるだろう。相手を愛しているようでいて、愛は本質的に自分を愛しているのである。第二に、愛は愛する対象に向かって執着を起こす。それを仏教では「渇愛」と呼ぶ。第三に、愛は憎しみと背中合わせである。>
 仏教が「愛」を否定するのは、上述の理由からだというが、そうだからと言って、キリスト教的な「愛」を否定しているわけでもなく、そのような「愛」を仏教では「慈愛」と呼んで区別しているとのこと。
 ひろ氏は、かつて、キリシタンがキリスト教の愛を『ご大切』と訳したことにも触れているが、臨床心理士として久しく内観面接に携わってきた立場から「愛」について述べさせてもらうならば、こうである。
 「愛」とは、物を与えたり、尽くしたりすることではなく、その文字が示す通り、「心」から相手を「受け入れる」ことである。受け入れる際に、条件を付けずに"無条件に"それが出来るようになれば、内観面接者として理想の域に到達したと言えよう。
 「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と、夏目漱石が嘆いて見せたように、昔から人間はお互いの関係(コミュニケーション)に苦しんできたようである。
 ところで、人間同士のコミュニケーションにとって言葉は大切な手段ではあるが、言葉だけでは不充分だとも言われている。コミュニケーションについての研究によれば、集団を前にした発表において、発表者が聴衆に与える印象を調べたところ、ボデイ・ランゲージによる印象が他を圧倒しており、55%を占めたという。ボディ・ランゲージとは、姿勢・ジェスチャー・視線の合わせ方のことである。
 次いで高かったのは、声の調子であり、38%の人がそれによって発表者から印象を受けたと報告している。驚いたのは、発表の内容が聴衆にそれほど影響を与えていないということだ。実際、話の内容(言葉)によって影響を受けたという人は、意外に少なく、わずかに7%であった。
 そうやって考えると、最近、アメリカの大統領に選ばれたオバマさんの場合もスピーチの内容よりも、ボディ・ランゲージと声の調子によって聴衆のハートを掴んでいたのだろうか。
 そう言えば、旅の達人として知られるタレントの久路流平さんがある雑誌の中に書いていた内容に興味を惹かれた。世界の40カ国以上を旅してきた久路さんが言うには、「外国へ行くと一番騙されやすいのは日本人だ」とのこと。特に外国語が堪能な人ほど騙されやすいという。久路さん自身は、ヒッチハイクをしながら安宿に泊まり、時には野宿をして旅を続けているが、一度も騙されたことがない、と言うのであるが、そのわけというのが以下のようなのである。
 「ぼくは、外国語が喋れないから外国の人と言葉でやりとりはしません。言葉がしゃべれるとつい言葉に頼ってしまうが、ぼくは、しゃべれないので相手の眼をジッと見るのです。眼を見ていると相手が本当のことを言っているのか、騙そうとしているのか、すぐに分かります。」と。
 留学のために外国語を習得するのはよいが、言葉だけに頼ってしまうと、詐欺師の罠にはまってしまうことになろう。