2009年6月アーカイブ

 1年がかりで準備に取り組んできた第32回日本内観学会大会を無事に終了することができた。陰に陽に、たくさんの方々からご協力いただいたお陰である。
 この場を借りて関係各位に感謝したい。
 当研修所や日本内観学会のHPに案内したように、今大会は、記念講演に島倉千代子さんをお迎えした。
 「わたし、今年71歳になります」
どういうわけか、島倉千代子さんは、講演の中で何度も71歳になったことを繰り返し話題にした。
 「きょうは、何度も年令のことを話題にしますが、これを言わないと始まらないんです」と言うのを聞きながら、彼女は今、人生の大きな節目を迎えているように思った。車から降りた島倉さんを楽屋まで案内したとき、足取りの重さが気になった。マスコミの報道によれば、最近、前マネージャーに実印を預けて預金を持ち逃げされたらしく、現在は、失意のさなかにいるはずだ。
 「この年になると、ただ歩いているだけでもよろけてしまうんです」
 そう言って、聴衆を笑わせたが、心中を察すると辛かった。
 ところで、講演を前に座長を務めてくれることになっていたY先生から「島倉さんと食事をしながら打ち合わせをしたい」と言われていたので、それを告げると「本番に向けてこれから準備をするので、打ち合わせの時間は取れないと思います。」と断わってきた。
 本番まで2時間もあるというのに、食事もそこそこに、舞台の上でマイクの調子を確かめたり、音響係に指示を出して、スピーカーの位置を移動させたり、と島倉さんは本番前のリハーサルに余念がなかった。そして、楽屋からは発声練習が聞こえていた。
 そんな彼女の姿を目の当たりにしては、これ以上「打ち合わせをお願いします」とは言い出せなかった。
 「わたしなんか、研究授業を控えてこんなふうに真剣に準備をしたことなんかないわ」とある女教師が呟いた。
 「ぼくもこれほど真剣に講演や授業の用意をしたことなんていままでなかったなぁ」と名のある大学教授が島倉さんの後ろ姿に感動を覚えたらしく、そう言った。
 島倉千代子さんが本大会の参加者に見せてくれたものは、「プロ魂」であった。

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吉本伊信のひ孫から花束を贈呈され、笑顔の島倉千代子さん

 

 

 前回、<内観では、過去の自分から掘り起こして現在の自分に至るまでを観察することになる>と述べたが、はたして人間の記憶は、何歳頃までたどることができるのだろうか。ちなみに、内観の創始者・吉本伊信は、過去の自分を調べる際に、小学校の低学年から始めるよう勧めている。
 奈良女子大学文学部で「子ども学」を講じている発達心理学者の浜田寿美男教授は、「『私』とは何か」(講談社選書)の中で、<小学校に入るまでの記憶をどれくらい手繰り寄せられるかを調べてみると、大学生くらいでも十個以上の記憶をすらすら出せる人は多くない>と述べつつ、<この世に生まれてきて一番最初の記憶は、だいたいの人が3歳から4歳の頃の記憶を思い出すことが出来る。なにかとくに印象的なことがあれば、2歳代や1歳代のことを覚えている子どももいる。>と指摘している。
 ところで、われわれが時間の感覚を持つには、過去の「私」と現在の「私」に何らかのつながりを感じている必要があり、私が「私」であるという同一性を感じていなければならないが、それを確認する方法として鏡像認知がある、と浜田教授は言い、鏡に映った顔を自分の顔だとわかるかどうかについて、チンパンジーを使った実験を紹介している。
<チンパンジーに麻酔をかけて眠らせたうえで額にペンキを塗る。揮発性のペンキは乾けば無臭なので、目を覚ましたあともチンパンジーはまったく気づかない。そうして普段と変わらない行動をしているところに鏡を差し出して見せる。そのとき鏡に映った姿を見て、チンパンジーは額の赤いペンキに気づき、自分の額に手をあて、必死になってそれをこすりとろうとする。鏡が自分の姿を映したことがわかっていると確認できる>
 同様に、口紅を子どもの顔に塗って実験したところ、1歳半頃になると鏡像を理解することができた。では、それ以前の胎児は、鏡像を理解できるであろうか。それについて<胎児の記憶とか出生時の記憶についての書物が出ているが、その多くはいかがわしい>と厳しく批判している。
 じっさい、インターネットで内観について検索すると「胎内内観」という言葉が出てくるが、浜田教授なら"眉唾ではないか"と、一蹴されるかもしれない。
 内観とは、内を観ることだ、と言われているが、その際に、過去の自分から掘り起こして現在の自分に至るまでを観察することになる。
 そこで、内観面接者としては、必然的に過去・現在・未来と流れているように感じられる「時間」について考えざるを得ない。私の場合、何かを考えようとするとき、先人の考察を参考にするのが習慣なので、とりあえず、本棚を探索してみた。すると、「時間の比較社会学」(真木悠介著・岩波現代新書)が目に入ったので、頁をめくった。
 以下は、その本から抜粋して、私流に書き直したものである。
 年々歳々花相似たり/ 年々歳々人同じからず(劉廷芝)
 これは、人生が短く、はかないものであることを詠っているようだが、果たして時間というものは、そう考えるだけでよいのだろうか。
 北アメリカのホピ族の場合は、<時間の中で現実はつぎつぎと無になってゆく>という感覚はなく、<過去は現在するもの>として感覚されているのだという。分かりやすく言えば、こうである。すなわち、先の詩は、人の視点で世界を観察した結果、人間の生の短さを実感しているが、神、あるいは自然の視座で見れば、個人は死んでも子や孫が誕生するわけだから、命は途絶えることなく永遠に続いているのだ、と感じられる。
 ちょうど、花が年々歳々枯れては咲くように、命が永遠に引き継がれるのと同じで、<時間は、はかなく消え去ってしまうのではなく、連綿と引き継がれて蓄積されるものだ>というのが、ホピ族の感覚のようである。
 <英語では「十日間」というとき、ten days と複数形を使う。それはあたかも ten men と、別々の人間が十人いるときの表現の仕方と同じだ。すなわち、英語を話す人々は、今日や昨日や明日というそれぞれの日を、別々の日と意識している。ドイツ語やフランス語でも事情は同じだ。けれども、ホピの文法では、このようには表現されない。「十日間」は複数ではない。昨日や今日や明日というそれぞれの日は、別の日ではなく、同じ日が繰り返し再現される、という感覚を持っている>
 つまり、過去は帰無することなしに現在し続けるのである。ホピ族に内観のルーツを見る思いがした。