2009年10月アーカイブ

一昨日の1025日のことである。愛知県は名古屋市にある労働会館にて名古屋連合断酒会主催の学習会が開催されるというので、参加してきた。表題が学習会の講演テーマになっており、150人を収容できるという会場は、153人が参加して、満席の状態であった。

 「人間の根本的な苦しみに生老病死という四苦があることは、よく知られていることですが、老病死の三つはともかく、なぜ"生きること"が苦なのか、私にはよくわかりませんでした。でもこれまで断酒会のみなさんと関わらせていただいたおかげで、それがよくわかるようになりました。」

 断酒会の顧問を務める講師は講演の冒頭でそう述べた。なるほど、しらふで"生きること"を最大の苦手としてきた人たちと長年関わってきたという講師にすれば、それが率直な感想なのであろう。15分の休憩を挟んでの2時間半はあっという間に過ぎてしまった。学習会というだけあって、一方的な講演ではなく、参加者も前に出て発言する機会が設けられた。

 圧巻は、講師自身も計画していなかったという場面が展開したことである。「生を知るには、死と直面することがもっとも手っ取り早い」という話が出たのがきっかけになり、ロールプレイとして生前葬が行われることになった。死にゆく人が自分の口で葬儀の参列者に向かってお別れの挨拶をしたのである。死者の役を演じたのは、アメジスト(女性のアルコール依存症者)だ。一緒に参加した夫は、思わぬ展開にためらいを見せたが、喪主としての挨拶をしてくれた。

 見送られる当の本人は、別れを惜しんでのことなのかやや饒舌気味ではあったが、最後まで冷静に振る舞っていた。片や喪主の役を演じた夫は、いつもより声も沈んで言葉も少なく、足取りも重そうであった。マイクを握りしめたまま「断酒会のみなさんには生前に大変お世話になりました」というのが精一杯で、ロールプレイとは言え、演じるのが辛そうであった。別れというのは、逝く人よりも遺された人の方が悲しみを深く感じるのかもしれないと思った。そうやって考えると、お通夜とか葬儀は、死者のためというよりも遺された者のためにこそ必要で不可欠な儀式なのであろう。

 平成211031日~111日に青森県は弘前市のいわき荘にて第21回内観療法ワークショップ(竹中哲子準備委員長)が開催される。その第2日目には、武術研究家の甲野善紀氏を招いて記念対談が予定されている。甲野氏と言えば、巨人からパイレーツに入団した桑田真澄投手を蘇らせた人として有名である。

 その甲野氏が、一度だけ大和内観研修所へお越しいただいた際に、いろいろお話を伺ったが、武術を基盤にした話題は、じつに幅広く深いものがあり、ノートに記録したくなるものばかりだった。およそ1年前の筆者のノートには,次のようなことが書き留めてある。

 「武術は、元来、相手を殺傷する技術ではあるが、突き詰めれば、相手への対応をどうするか、ということになります。決して野蛮なだけでなく、対人関係の技術を磨いていく上で役立ちます。その人の何気ない対応次第で、状況がガラッと変わってしまうことがあります。特に、謝罪をするときには、その人の人としての力量がもっともよく顕れてきます。謝るって結構難しいものです。いじけることなく、ふてくされることもなく、素直にあやまるには、その人のセンスが問われますね。謝り方が見事で、それを認める相手にもそれだけの器量が備わっていれば、謝罪がその場で収まってしまうことなく、その後の関係性が親密になるだけでなく、その人の生き方が変わることがあります。逆に、マニュアル通りに謝っても、全く相手のこころには、響きません。かえって相手を怒らせることにもなります。謝罪の仕方は、ほんとうにその人の力量が問われることになりますね。」

 筆者は、テレビなどで政治家や経済人などが謝罪するシーンと内観者が屏風の中で懺悔する姿を思い浮かべながら氏の話に耳を傾けた。たしかに、深い内観に到達した方の懺悔の姿は、テレビの中の著名人の謝罪とは違うように思われる。たとえば、元やくざの親分として有名な橋口勇信さんの内観のテープを聴いて、その懺悔の深さに感銘を受ける人は少なくない。橋口氏の内観前と内観後の生き方は、ガラッと変わったことは周知のことである。甲野先生の人間観察力の鋭さと深さに感服させられたものである。

 

 今回は、どんな話が伺えるか、楽しみにしたい。

 

 

来所の甲野先生.jpg来所時の甲野善紀先生

内観療法と理論"は古くて新しいテーマである。実際、日本内観学会は1990年の第13回名古屋大会において「内観療法に理論は必要か」というテーマを掲げてンシンポジウムを開催している。筆者はシンポジウムの企画者として、壇上のシンポジストはもとより、参加者に向かって次のような問題提起を発した。

「内観は浄土真宗の一派に伝わる"身調べ"という修行法から発展してきたこともあり、理論(理屈)に走ることを戒め、実践こそが重視されてきた、という歴史がありますが、内観法はともかく、ここでは"内観療法に理論は必要か"について考えてみたいと思います。」という前置きから始めたが、それは学際性を特徴とする日本内観学会においては必要なことであった。何しろ、会場には医療界だけでなく、宗教、矯正教育、学校教育、産業界、法曹界、内観研修所など多分野の参加者が顔を揃えていたからである。分野の違う人々が話し合うには、まず"理論"という言葉の意味を確認する必要があった。

「理論という言葉は、多義的に使われているので、整理しておく必要があると思います。広辞苑によれば、①個々の事実や認識を統一的に説明できる普遍性をもつ体系的知識。②実践を無視した純粋な知識。この場合、一方では高尚な知識の意を含むが、他方では無益なものという意味が含まれることもある。という二つの意味が示されていますが、当然のことながら、修行法から発展してきた内観においては②の意味での理論は排せざるを得ないでしょう。したがって、ここで理論というときは、①の意味で用いることにします。内観療法における理論は、実践を無視するどころか、徹底した臨床実践の中から積み上げていく理論でなければならないことは、言うまでもありません。」

 筆者の問題提起を受けて発言したシンポジストは、村瀬孝雄教授・杉田敬臨床心理士・David Leynolds博士・竹元隆洋医師の4氏である。面白いことに、ロゴスの国・アメリカ出身の文化人類学者は、「内観に理論は必要ないです。内観は内観でよいと思います。」と一人だけ理論不要の立場を表明したのに対して、日本人の3氏は、それぞれの立場から理論の必要性を説いて見せた。各氏が発言した詳しい内容を知りたい方は、第13回日本内観学会大会発表論文集をご参照ください。

 

 

 

 

「2年がかりになりましたが、ようやく先生の著書『心理療法としての内観』(朱鷺書房)が来月には、中国で出版されることになりましたよ。」と監訳者の王祖承教授は、青島空港から第2回中国内観療法学会大会の会場までの車中でそう言って私を喜ばせた。漢字で書かれた日本語はそうでもないが、西洋から入ってきたカタカナ表記の外来語は、中国語に翻訳するのに相当苦労したようである。翻訳にまつわるエピソードが一通り話題になったあと、「内観は心理療法と呼べるか」ということが話題になった。かつて中国を代表してWHOの委員も務めたことのある王教授によれば、心理療法と呼ぶには、10の条件を満たさなければならない、という。車中ではあったが、私はそれをノートに記録した。以下にそれを示すことにするが、9番目の条件を王教授は忘れてしまって思い出せなかった。括弧でくくったのは、とりあえず私が勝手に入れたものなので、これから王教授に確かめて見るが、もしそれが間違っていれば、訂正しようと考えているからである。

"心理療法として内観"という本を読めば、内観が心理療法の条件を満たしていることがよくわかります。」と言われた王先生の言葉だけは、間違いないことなので、ここに書き留めておくことにしよう。

 

1,創始者・2,後継者・3,標準の方法・4,応用(変法)

5,文化的な基盤・6,専用の用語・7,理論・8,反復性

9,(料金)・10,有効性(効果)