我いまだ"生"を知らず、いわんや"死"をや

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一昨日の1025日のことである。愛知県は名古屋市にある労働会館にて名古屋連合断酒会主催の学習会が開催されるというので、参加してきた。表題が学習会の講演テーマになっており、150人を収容できるという会場は、153人が参加して、満席の状態であった。

 「人間の根本的な苦しみに生老病死という四苦があることは、よく知られていることですが、老病死の三つはともかく、なぜ"生きること"が苦なのか、私にはよくわかりませんでした。でもこれまで断酒会のみなさんと関わらせていただいたおかげで、それがよくわかるようになりました。」

 断酒会の顧問を務める講師は講演の冒頭でそう述べた。なるほど、しらふで"生きること"を最大の苦手としてきた人たちと長年関わってきたという講師にすれば、それが率直な感想なのであろう。15分の休憩を挟んでの2時間半はあっという間に過ぎてしまった。学習会というだけあって、一方的な講演ではなく、参加者も前に出て発言する機会が設けられた。

 圧巻は、講師自身も計画していなかったという場面が展開したことである。「生を知るには、死と直面することがもっとも手っ取り早い」という話が出たのがきっかけになり、ロールプレイとして生前葬が行われることになった。死にゆく人が自分の口で葬儀の参列者に向かってお別れの挨拶をしたのである。死者の役を演じたのは、アメジスト(女性のアルコール依存症者)だ。一緒に参加した夫は、思わぬ展開にためらいを見せたが、喪主としての挨拶をしてくれた。

 見送られる当の本人は、別れを惜しんでのことなのかやや饒舌気味ではあったが、最後まで冷静に振る舞っていた。片や喪主の役を演じた夫は、いつもより声も沈んで言葉も少なく、足取りも重そうであった。マイクを握りしめたまま「断酒会のみなさんには生前に大変お世話になりました」というのが精一杯で、ロールプレイとは言え、演じるのが辛そうであった。別れというのは、逝く人よりも遺された人の方が悲しみを深く感じるのかもしれないと思った。そうやって考えると、お通夜とか葬儀は、死者のためというよりも遺された者のためにこそ必要で不可欠な儀式なのであろう。

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