2010年1月アーカイブ

 「どうやって先生は、内観と出合ったのですか?」

 オフィスアワーに研究室を訪ねてきた学生が面談終了間際になって、そう訊いてきた。卒論のテーマを決めかねての質問のようであった。しかし、ドアの向こうには、予約してあった次の学生の気配がしている。その問いに応える時間がなくなったので、本欄を使って返答をすることにした。

わたしは、臨床心理士として、病院臨床の中で内観療法を実践してきましたが、内観療法との出合いをもたらしたのは、アルコール依存症でした。というのは、いわゆるチーム医療によってアルコール治療に取り組んでいるY病院が最初の職場になったからです。その病院では、精神科医である主治医は週1回の診察(精神療法)を、看護師は生活療法的な関わりを中心に、そしてケースワーカーは集団療法(断酒の集い)を主導していました。臨床心理士はといえば、心理テストに力点を置いた関わりをしていたのです。

そこで、わたしはアルコール治療における臨床心理士の仕事として、心理テストだけでなく心理療法を加えたいと思ったのです。ところが、他罰的で治療への抵抗が強く、自分自身のアルコール問題でさえ否認しようとするアルコール患者に対して、通常のカウンセリングをおこなっても内省に向かうどころか、自分を正当化するだけの面接になりがちなため、臨床心理士として無力感を味わうことが多くなりました。そんな折りに内観のことを知ったのです。早速、奈良県大和郡山市にある吉本伊信師の内観研修所(現在の大和内観研修所)を訪ねて、わたし自身が集中内観を体験しました。1977年のことです。わたしの内観体験についての詳細は省略しますが、衝撃的な体験でした。そこで病院臨床のなかに「内観」を導入したいと考えました。けれども最初の勤務先となったY病院では内観原法とされる集中内観の導入は、人的にも経済的にも難しく、やむなく、変法としての分散内観を導入したのです。それなりの手ごたえを感じていましたが、なんとか集中内観を導入したいという思いは持っておりました。そして、二つ目の職場となったH病院では、院長の理解を得て、それが可能となったのです。うれしかったですね。なぜならば、単に病から回復するというよりも、内観によって人間として生まれ変わるというか、新生していく彼らの姿を目の当たりにして、援助者冥利を感じるようになったからです。

はじめはアルコール依存症者本人だけを対象にしていましたが、その後、家族の回復のための援助が必要になって、家族成員に対しても集中内観の導入が図られるようになりました。そうしているうちに、アルコール依存症以外の、たとえば、神経症や心身症のケースが紹介されて集中内観にやってくるようになりました。その他、いじめや不登校など、青少年の問題が多発する時代になって、内観療法の対象がますます拡がっていきました。ご縁に導かれて、2000年4月、内観発祥の地である大和郡山市の内観研修所がわたしの職場となりました。そして、現在は、これまで経験してきたことを若い人に伝えるという仕事が新しく加わりました。

 

 

 国会では衆院予算委員会が開かれている。政権交代後のこの国の行方が知りたくてテレビのスイッチを入れてみた。国家予算について審議するのかと思いきや、質問の内容は政治資金規正法をめぐる鳩山首相と小沢幹事長のことばかりであった。しかものっけからヤジの応酬で非難合戦が繰り広げられて、議員の品格を疑う言葉が飛び交っていた。聞くに堪えず、見るに忍びないので、スイッチを切った。目をテレビから一冊の本「日本語はどこから生まれたか」(工藤進著 ベスト新書)に移した。

しばらく読んでいたらアフリカには、「否定を用いない言語」を使っている国があると書かれており、驚いてしまった。それはバンバラ語というらしく、論議の際にも否定語をほとんど使わずにやりとりが行われるという。バンバラ語では、議論になっても相手を非難せずに相手の言葉をほんの少し変えるだけで、ほぼそのまま繰り返すというのである。そして、そのとき、相手の言った内容をほんの少しだけ変えるところが大事な点のようだ。つまりそこが両者の考えの違うところなので、そこに焦点を当てて、なんども繰り返してお互いの一致点を探るのである。結論に達するまで延々と続けられるそうだ。

「この議論の形態はしたがって、言葉上の『肯定』の積み重ねである。」

著者の工藤氏はそう言うのである。そして、次のように解説する。

「意見の食い違いはやわらかでおとなしい装いの下に提示され、人は相手の言葉を繰り返し、その大要を是認するのである。相手をそっけなく否定することは決してしない。ただそれぞれの言述の間にはわずかだが違いがあり、その違いの認識が重要なのだ。しかしこうして相手の言葉を繰り返し続けることによって二人の考えはしだいに合意点に収れんしていく。」

短兵急に結論を急ぐ人々からすれば、なんともまどろこっしくて耐えられないかもしれないが、しかし、無用な闘争は避けられよう。時間はかかるが、心底からの合意が得られるので、敵対する者が仲直りを成し遂げ、平和さえも可能なのだ。エスペラント語や英語を世界共通語にするよりも、バンバラ語を人類の共通語にしてはどうだろうか。我が国の国会議員は、バンバラ語を学んで、それを使って国会に臨んでもらいたいものだ。衆院予算委員会をテレビで見てそう思った。

 

 

 

 「"子ども学"って "幼児心理学"や"児童心理学"とは、違うんですか?」

 オープンキャンパスにやってきた親子連れがそう訊いてきた。母親は学生時代に心理学の授業を受講したことがあるらしく、「わたしが学生の頃には、"子ども学"なんて聞いたことないし、そんな科目はなかったですよ。いつ頃出来たのですか?どんなことを研究するのですか?」と傍らの娘(高校生)を代弁して、早口で問い掛けてきたために、応対した教員の答えは、それにつられて紋切り型になってしまった。

「本学では、7年前に"子ども学プロジェクト"が発足して、それから5年後に"子ども臨床学コース"が新設されました。ですから、現在の2回生が第一期生になります。」

ところが、それは、娘の求める答えではなかった。口元に笑いを作って見せたが、眉間には皺を寄せ、頬は引きつっていた。人の表情は正直である。その説明に満足していないことは明らかであった。その教員は、しばし戸惑っているようであったが、代弁者の母親を通して娘の真意を探ることにした。

 

【"子ども臨床学"に求められているもの】

5年前の200411月に小学校1年生の少女(楓ちゃん)が誘拐されて殺された事件は覚えていますか?」と尋ねる教員に、母親は「ええ、もちろんです。知人の近所で起こった事件です。今でもよくその近くを通ります。」と即座に答えてくれたので、1988年~1989年にかけて埼玉県で発生した連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)や2001年に発生した大阪の池田小学校の事件なども話題にしたところ、それまで沈黙の娘が口を開いた。

「じつは、わたしは子どもが好きなので、被害に遭っている子どもたちを援助する仕事がしたいのです。"子ども臨床学"を学ぶとそれが出来ますか?」と視線を向けてきた。

「どんな仕事をしたいのですか?」と教員が尋ねる。

「幼稚園か小学校の先生でもよいのですが、ふつうの教えるだけの教師ではなく、傷ついた子どもの心を癒せる教師、あるいはカウンセラーになりたいんです。」

ずいぶん真剣に、しかもかなり具体的に子どものことを考えているようだ。

「つまり、カウンセリングマインドを身につけた教師ということでしょうか?」という教員の言葉に「そう、そうです。単に"子ども学"ではなく"臨床"が入っているので、それを期待しているのですが・・・」と相手の顔をのぞき込むように訊いてきた。

時代は21世紀に入って、子どもの安全と癒しに関心が集まっているようである。

 

【"子ども学"とは、子どもに学ぶこと】

本学で行われている"臨床"について一通り説明しているうちに親子とも緊張がとれた様子で、自分たちのことを開陳してくれた。陳述者は母親で、主人公は娘である。

「この子の小学校2年生の担任は、大変厳しい人で、給食の時間にハンカチを忘れた子がいると連帯責任を取らせて、班の全員を集めて説教したようです。ある朝、この子がハンカチを2枚もカバンに入れるので"どうしたの?"と聞いたら"忘れてくるお友達の分も持っていくの"と言うのです。親としてはわが子の優しさがうれしくて、"そう、えらいわね"と褒めてやりました。懇談日に担任からも娘の行為を褒めていただいたので、誇りに感じておりました。しかし一方で、持っていくハンカチは2枚が3枚になり、4枚5枚と次第に増えていったので、いったいどこまで増え続けるのかちょっと心配にもなっていました。そんなある日、学校から帰ってきた娘が"お母さん、きょうはうれしいことがあったの"と言うので、わたしはてっきり持っていった5枚のハンカチを全部貸してあげたのでうれしかったのだと思っていたら、"きょうはひとりもハンカチを忘れた子がいなかったの!"と、ハンカチを貸してうれしいのではなく、ひとり残らず全員が忘れ物をしなかったことを喜んでいたのです。わたしは大人として恥ずかしくなりました。」

親子の話を聴いていた教員は、子どもの心の純粋さに感動したのは言うまでもないが、母親の言葉にも清涼感を覚えたようである。

 そこで、"子ども学"には、"子どもに学ぶ"という意味が含まれているのかもしれない、と思った。たとえば、奈良女子大学の麻生武教授は、自分の子どもを観察した結果、「身ぶりからことばへ―赤ちゃんにみる私たちの起源―」(新曜社)という研究成果を著しているが、それなどは、"子どもに学ぶ"ことによって紡いだ"子ども学"だと言ってよいだろう。

「私は息子を育てることによって、すっかり忘れてしまっていた赤ん坊時代を再び体験できたように思っている」とまえがきに記した著者の言葉にもそれが伺える。

"子ども学"は、若くて新しい学である。それだけにまだ一つの色に染まっているわけではない。教育学、スポーツ科学、心理学など様々な領域からの接近が可能である。奈良女子大学では、人間科学科の4コースを繋ぐものとして大いに期待されている。

 

新年明けましておめでとうございます。新年早々ではありますが、筆者が勤務する奈良女子大学からのご案内をさせていただきます。220()は、午前9時より午後4時頃まで奈良女子大学にて子ども学研究集会が開催されます。本欄には学長と学部長の祝辞、並びに実行委員長の挨拶を掲載しました。内容の詳細はこちら

一般参加者にも門を開いておりますので、子どもの問題に関心のある方は奮ってご参加ください。なお、参加は無料です。

 

子ども学研究集会に寄せて

 

奈良女子大学長  野口誠之

 

 

 文学部に子ども学プロジェクトが発足したのは、法人化の前年、20034月のことです。教育-研究-実践-社会貢献を連動させる、本格的なプロジェクトとして、出発しました。その後、本学は国立大学法人となり、この間、本学の変革に歩を合わせて、子ども学プロジェクトの活動は発展してまいりました。とりわけ、子ども学分野の科目開講に積極的に取り組み、さらには文学部に専門コースを開設するなど、教育分野において目覚ましい進展がありました。また、本学の地域貢献事業において「次世代自立支援の子ども学」のプログラムを実施し、社会貢献分野で先進的な取り組みを行ってきました。

このたびの子ども学研究集会は、7年間のこれまでの活動を総括し、新たな展望を描くためのマイルストーンとして、記念すべき集会となるでしょう。

 本学は、初等・中等教育の教員養成に取り組む奈良女子高等師範学校として創立してから100年になりました。創立以来、一貫して、子どもの育ちと学びを研究し、その成果を社会に還元する姿勢をもち続けています。また、大学と附属学校園との連携・協働は全国に誇る実績をあげておりますが、その一翼に子ども学プロジェクトが参画しています。今後も、本学の特色の一つとして、子ども学プロジェクトを位置づけると共に、活動が一層、展開し、大学の研究教育と社会の変革とに貢献することを期待しております。

 

 

子ども学研究集会に寄せて

 

奈良女子大学文学部長

 

出 田  和 久

 

 

 文学部子ども学プロジェクトは、多様な学問的方法が共在する文学部の特色を生かすプロジェクトと位置づけられ、学際的に「子ども」とは何かを問うことを目的として20034月にスタートしました。魅力ある大学像が求められるなかで、文学部をより魅力あるものとするためには何をなすべきか、何ができるか等について、フォーラム等で出された意見を参考にしながら、文学部将来計画検討委員会で様々な議論を重ね、教授会における数度の審議を経た結果でありました。

今改めて「子ども学」の基本的なコンセプトを振り返りますと、「子ども」を単に年齢的な区分にとどめて捉えるのではなく、家族・ジェンダー・ライフサイクル等を視野に入れた関係性としての「子ども」の視座から、対象としての「子ども」を照射することによって、現代社会の喫緊の課題として社会的要請も強い「子ども」の心理・健康・教育問題に対して、単なる対症療法にとどまらない対応策を見出すアプローチとが可能となるというものでありました。「子ども」をこのように捉えることによって、奈良女子大学文学部における「子ども学」としての特色の発揮が期待され、そのプロジェクトの推進の核としてお迎しえたのが濵田壽美男教授でした。このことは、第10次定員削減を引きずりながらも国立大学の独立行政法人化を翌年に控え、文学部としてはじめての試みであるプロジェクトを成功させようとの決意の表れでもありました。爾来約7年間にわたり、人間科学科を中心とする教員の支援を得て、シンポジウム、公開講座、地域貢献事業、さらには定例研究会(公開)、映画会の開催と多様な取り組みの中心として濵田教授が活動して来られたことは周知の通りです。

このたび、文学部子ども学プロジェクトの牽引役を担われた濵田教授の定年退職を前に開催される本研究集会には、これまでの本プロジェクトの総括の意味も込められているものであると思います。私はかつて文学部将来計画検討委員会の委員長として本プロジェクトの発足にも深く関わりましたので、本「子ども学研究集会」の開催を祝すとともに成功を収めることを祈念しています。さらに本研究集会を通じて、子ども学プロジェクトが当初の目的をどの程度達成できたか、また今後どうあるべきかについても指針が得られればと大いに期待を寄せています。

 

 

 

 

子ども学研究集会の開催にあたって

 

 真栄城輝明

 

 (準備委員長)

 

 このたび、これまで「子ども学プロジェクト」を牽引してこられた浜田寿美男教授が定年のため退職されることになりました。周知のように、本プロジェクトは、7年前に浜田教授を迎えて立ち上げられたという経緯があります。

そして、5年の歳月を掛けて、今から2年前に「子ども臨床学コース」が生まれました。ということは、現在の2回生が第一期生というわけですが、彼女たちの卒業を待たずに本学を去ることは、本コースの担当教授にとっていささか心に残すものがあるのではないかと推察されます。今回の研究集会は、そのような背景の中で企画されました。 

そこで、記念講演に"退官記念講演"としての意味合いを含ませたことは、自然なことでした。さらに、シンポジウムもそれと関連しており、テーマとシンポジストの選任は、浜田教授にお願いしたところ、プログラムで示した内容になりました。

先述したように、本学の"子ども臨床学コース"は、"子ども学プロジェクト"という産みの親が長い妊孕期間を経て、産みだしたものです。いまようやく生後2歳を過ぎたところですが、今後、その子が健やかに育っていくためには、周囲の愛情はもとよりですが、これまで以上のエネルギーを必要とすることでしょう。

幸い、今回の研究集会を開催するに当たって、野口学長と出田学部長より寄せられた祝辞が、大きなエネルギーとなることは間違いありません。

さらに、「子ども学」は、第三学科の4つのコースを繋ぐものとして、今後ますます重要なキーワードになっていくように思われます。そして、今回の「子ども学研究集会」は、第三学科という横の繋がりだけでなく、在校生とOGという縦の関係をも繋いでくれることが期待されます。準備委員一同が、学内外から広く一般演題を募集することを企画したのも、そんな期待からでした。当日は一般にも公開されております。「子ども学」に関心のある方のご参加をお待ちしております。

 

 

 今年もまた旧知の方はもとより、新しく知己を得た方など、たくさんの方から年賀のご挨拶をいただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

しかし、いまやパソコンの時代で、メールを使って写真入りの年賀も増えてきました。インターネットの時代になって、コミュニケーションが便利になりました。これは誰しも認めることでしょう。

けれども、近年は、人間のコミュニケーション能力が退化してきているように思われることが少なくありません。

じつは、私の所属する学会もインターネットによる会議を行うことがあります。簡単な連絡程度であれば、なんとか支障もなく、確かに便利な点があることは認めます。

けれども、何かあるテーマについて議論しなければならないという状況では、経験したことがある方ならよくわかると思いますが、話し合っている内に、意見の食い違いから、テーマからそれていく傾向がしばしばみられます。そこで、複雑な問題は、やはり直接に顔を合わせて話し合う必要があります。顔の見えない状況で、言葉(文字)だけで行うコミュニケーションはお互いが理解し合うことは困難です。

 たとえば、4コマ漫画で夫婦がやりとりする場面があり、夫が「風呂」と言っただけで、妻はタオルや下着などを用意していますが、それは目の前にいて言葉以外の表情や声の調子を感取できるからうまくコミュニケーションが成立しているのです。

ところが、最近、同じ家に住んでいながら、メールでコミュニケーションをしているという夫婦がカウンセリングに来ました。お互いに別の部屋にいて、もし仮に、夫にメールで「風呂」と言われただけでは、「風呂の準備をしてくれ」という意味なのか、あるいは、「きょうは風呂はいらない」という意味なのかよくわからないと思います。

なぜなら、メールでは相手の表情が見えませんし、声も聞こえないからです。そんな状況で、お互いがうまくコミュニケーションが出来るはずがありません。これでは、コミュニケーション力が低下していくのも無理はありません。

 たしかに、それを補うかのようにメールの機能に顔の表情を表す絵文字などが使われてはいますが、それはあくまでもシンボルとしての機能しかありません。

 近年の年賀状もパソコンで作成するようになって、肉声が感じられないのが増えたように思います。どんなにデザインに趣向を凝らしてあっても、手書きで一筆が添えられているのとそうでないのは、読み手の感触が全くと言っていいほど違います。しかし、どうも最近の年賀状の中には、受け手のことを考えているようには思えないものがあります。

コミュニケーションの基本は、何と言っても相手の気持ちを考えることだと思いますが、送られてきた年賀状をみていると、この時代、コミュニケーション力の退化が著しく進行しているように感じられます。相手の立場に立つための訓練として、内観は優れていると言われていますが、実際、内観体験者の年賀状はひと味違うように思われます。少なくとも私の元に届いた年賀状に限って言えば、そう感じさせるものがあります。もちろん、逆は真ではありません。