2010年5月アーカイブ

先週は小欄に学生のレポートを紹介しましたので、今週は、私の講義ノートから抜粋して紹介することにしました。講座名は「臨床心理学特論A」と言って大学院生を対象に欧米で生まれた心理療法はもとより、日本独自の心理療法について講じていますが、今週は、森田療法について取り上げました。

 

森田療法の創始者・森田正馬に表題の著書(白揚社)があります。中には正馬を「しょうま」と読む人がいるようですが、正しくは「まさたけ」と呼ぶべきでしょう。手元の辞書によれば、馬(うま)を馬(たけ)と称するときは、「背丈の高い馬」のことを言うようです。

さて、名前のことはともかく、森田は神経質の本態的条件について「ヒポコンドリー性基調」を挙げ、症状発展の条件に「精神交互作用」があると説いています。そこで、ヒポコンドリーとは何か、森田自身は、以下のように述べているので紹介します。

 

「ヒポコンドリーとは、心気症すなわち疾病を恐怖する意味であって、人間の本性である生存欲のあらわれである。したがって、これはすべての人が持っている性情であるが、その程度が強過ぎるときに、精神的傾向となり、異常となり、ますます神経質の複雑、頑固な症状を呈するようになる。なお、このヒポコンドリーの語源は、hypo(ヒポ)は下で、chondor(コンドル)は、軟骨であって、胸骨端の心窩部(みぞおち)ということである。心配、不安のときには、ここに普段と変わった感じを受けるのであるから、ヒポコンドリーとは、本来ものを気にするという意味から起こった言葉である。

この心気症、すなわち病気を気にすることは、その程度や種類にしたがって、つぎのようなものがある。死の恐怖、疾病恐怖、毒物有害物の恐怖、災害や縁起の恐怖、または感覚の不快、苦痛、心の葛藤の苦悩などを恐怖し、取り越し苦労をするなど、各種のものがある。直接に死の恐怖に関係したものは、心気亢進発作、不安苦悩発作、めまい卒倒発作、運動麻痺発作など発作性の症状となる。疾病恐怖は、癌、結核、梅毒、精神病などを恐れるいわゆる心気症、その他種々の症状となる。不快、苦悩を恐れるものは、頭痛、めまい、頭内もうろう、身体倦怠、耳鳴、注意散乱、記憶力減退、多夢、不眠などの症状を起こすようになり、これをその症状の所在からいえば、血液循環、分泌、消化、背触機能など、内臓神経機能に関係し、または感覚器官、運動器官などの神経機能に関係し、あるいは精神機能に関係する普通いう神経衰弱の症状を現わすようになる。けれどもこれらは、実際に器質的または他覚的のものではなくて、すべて単に主観的・自覚的の症状であって、あとで述べる精神交互作用によって起こるものである。」

 

この"精神交互作用"と言う概念も森田療法を理解する際、きわめて重要なキーワードです。では、"精神交互作用"とは何か、森田は同著の中で次のように説明しています。

 

「神経質において精神交互作用というのは、ある感覚に対して注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまって交互に作用し、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。」と。

 

 前期は木曜日に表題の授業を担当して昨日でまだ5回目だと言うのに、提出された学生のレポートの量ときたら、すでに仕分け箱からはみ出すほどになった。レポートを読むことは、確かに時間はかかるが楽しいひと時でもある。なにしろ学生たちのレポートの内容が多彩で面白いからである。どのように面白いのか、ご本人の了解を得たうえで、原文のまま、小欄にて紹介することにした。

 

山形ゆり(文学部人間科学科2回)

 

祖母が齢80になる頭をしぼりだして教えてくれたことを書きたい。

 前回、先生が「祖父母が幼いころ、民間治療者が地元にいたか」を聞き、レポートにまとめておいでと仰ったとき、私はそんな無茶なと叫んだ。心の中で。日本のどこにでも民間治療者はいたのだというが、フシギいっぱい神秘のくにである先生の故郷・沖縄ならまだしも、1年を稲作と降雪に終始する超現実的なわたしの地元にそのようなミステリアスな存在があったとは思えなかったからである。ダメもとでぼんやり電話をとった祖母に聞いてみた。なんと存在したという。驚くべきことであるようにおもった。以下にその詳細をまとめたい。

 

  ミコサン(巫女さん?)

時期:昭和30年代ごろ

地域:山形県庄内地方添川地域

彼女は60~70歳くらいの、目の見えないひとであったという。

毎年1度、祖母の住む村に付き人を連れて訪れ、村の決まった1軒に寝泊まりしながら各々の家に赴き、その年1年間の予言をする。謝礼として、金や、多くの米などを受け取っていた。

儀式は仏壇の前で行われる(この地域の仏壇は、上部に神棚が一緒に設けられている。神道の祭壇と一体化したつくりになっている)。彼女はふわっとした衣をかぶって、紙がついた棒を仏壇の前でサラサラと振り(私の解釈ではしめなわを飾るような白いジグザグとした紙であったのではないかとおもわれる)、なにやら文言を唱える。そうして、家族1人ひとりについてその年の健康状態や心の状態を予言した。

彼女は予言の際、一家の主を「高烏帽子(タカエボシ)」、その妻を「ヘラドリ」といい、子供たちはそれぞれ「一の宝、二の宝...」とよばれた。農家にとって重要な役割を担っていた馬は、「庭宝(ニワダカラ)」といったらしい。

そうしてされた予言であったが、祖母は「いま思えばよく当たるものであった」と当時を振り返る。祖母の祖父は水の災害に遭うといわれたのだが、ある日山にいったきり行方不明になった。次の日に、沢に落ちて這い上がってきたところで動けなくなっている祖父が発見された。彼はその出来事を元に寝込んでしまい、遂には亡くなってしまったという。その妻である祖母の祖母は長い病にかかるが、嫁次第で回復し楽になるといわれた。その言葉の通り、彼女は3年ほど寝込んだのち回復し、孫や息子夫婦に囲まれて幸せに暮らしたという。

このように、科学技術も未発達で地理的にも開けておらず、なにも拠り所がなかった当時、やはり神に仕える者は頼りにされ、村に生きる人々のすがりどころとなっていたのであろう。彼女以外にも、似たようなことをして家々を回っていたものは多かったとおもわれる。

余談として、私の祖父と結婚した後、祖母は1度、この「ミコサン」と呼ばれていた女性に偶然会ったことがあるという。そのころにはもう、その職(?)には就いておらず、付き人も亡くなってしまったため、彼女は一人暮らしをしていた。それから間もなくして、その家も空き家になってしまった。

 

長くなってしまったが、もう一つ書いておきたい。これは、山形という地域ならではの存在、繁栄のしかたであったものである。

 

  行者

時期:平安時代~現在(一般人が参加し始めたのは室町時代、最盛期は江戸時代である)

地域:山形県全域、秋田南部、宮城西部

 羽黒山、湯殿山、月山に成る出羽三山のふもとに生きる者たちにとって、行者信仰は生活に大きな影響を与えるものであった。修験道を中心に共同生活、修行に励み、神の使いとしての技を会得した者は、人々の病気や、天気、作物の出来などについて加持祈祷を行った。信仰の根強く残るこれらの地域において行者になることはとても徳の高いことであり、人々の役にも立ち、自らも助かるといわれていたため、志願者も多かった。しかし険しい山での修行の厳しさから、途中で命を落とす者や、道を断念する者も多くいた。

 また、原因としては周辺地域の主な生業である農業は、天気や虫害などの人力ではどうすることもできない「自然」に多くをゆだねざるをえないものであることが考えられるが、昭和の後半に入っても、行者信仰は残り、家業のない冬期間になると、健康な若い男子は修行を積むべく集められたという。

 行者をなりわいとして生計を立てていた者は全体のほんの一部であり、彼らは加持祈祷のほか、修行者の先達などを行っていた。

 現在でも山には修行を積む行者の姿があり、ふもとの家々を回って祈祷・祈念を捧げる風習がのこっている。

 

これが、わたしの地元に伝わる民間治療者たちである。

 存在を意識したことのなかった人たちに目を向けられたのは地元の特色や人間性を確認する上で貴重なことであったようにおもう。

 山形という厳しいながらも豊かな自然環境の中で、人々の心はより神に向けられ、長い間、強い畏怖と崇拝の対象にあったことがわかる。

 

5月の連休明けは、学生の、とりわけ新入生の心身両面における諸問題が気になる季節である。実際、連休前の4月に比べて、授業への欠席も目立つようになった。

ところで、中国の新華社通信の報道は、「韓国人の若者の死因トップは自殺であることが、韓国で行われた調査によって分かった。」と伝えている。08年の統計のようであるが、「韓国の1524歳の若者の死因で最も多かったのは"自殺"、次いで"交通事故"、そのあとに"ガン"や"溺死"が続いた。」とある。さらに、この年代の若者のうち、「1年以内に自殺を考えたことがある」と答えた割合は89%もいて、背景には、激しい受験競争と就職難があると考えられているようだ。「専門家は、カウンセリング機関を増やすなどして若者の自殺予防に力を入れるべきだと指摘している。」ことも伝えている。今年の11月5日にソウルで国際内観シンポジウムが開催予定であるが、そこでも自殺の問題が取り上げられるようである。若者を心身共に健全に育成することは、国家の行く末にもかかわることであり、国を挙げて取り組まなければならない問題である。特に大学はもとより、各教育機関は、重大な課題として考える必要があろう。

 さて、5月のこの時期は、新入生を対象に様々なプログラムが試みられているが、奈良女子大学では、今週の水曜日に新入生を対象としたオリエンテーションの一環として"カルト"から身を守るための講演会が行われた。講師は、大阪大学医学部保健学科の大和谷教授である。そこで最初に話題にされたのは、韓国発祥のカルト「摂理」と「統一教会」であったが、我が国の「オウム真理教」・「親鸞会」・「顕正会」・「神世界」などについても詳しく取り上げて、彼らがキャンパス内で新入生をターゲットにした勧誘の手口が写真入りで紹介された。

それによると、勧誘の特徴として次のような点があるようだ。

 

 1,一人でいる学生が狙われやすい。

2,個人情報(連絡先)を含むアンケートを取る。

3,「大学のため」「地域のため」「世界のため」など大きな目標を持つ。

4,ターゲットにした学生を褒め称え、賛美する。と同時に、

5,ターゲットの学生の問題を見つけ不安感をあおり、引きずりこむ。

 

引きずりこむ際に様々なカモフラージュ団体(環境サークル・地域振興サークル・英会話サークル・サッカーサークル・大学新聞・人生を考える会など)を作って誘い、さらに様々なカモフラージュイベント(環境美化活動・青少年育成活動・スポーツ大会・公開講座や講演会・サマーキャンプなど)を催して、友人を作らせないように人間関係を遮断したうえで、マインドコントロールを仕掛けるという。マインドコントロールは、思考・感情・行動の三つの側面からおこなわれるのが特徴だ。親元を離れて、一人で下宿生活を始めたばかりのさびしい学生に目を付けるのが勧誘の手口になっているようであるが、仮に、入会してしまった場合は、夏休み前であれば、なんとか脱会させるのも不可能ではないが、夏休み後になると相当難しいとのこと。夏休みに長期の合宿を行ってマインドコントロールされてしまうのがその理由のようである。

 新入生が受講している私の授業では、まず受講生の自己紹介からはじめている。そのあと、グループを作ってもらい、グループ単位で課題に取り組んでもらうのは、孤立しがちな新入生のことを考えてのことだ。カルトが狙うのは、一人さびしそうに孤立感を漂わせている学生だからである。いまや"孤立を恐れ、連帯を勧める"時代なのかもしれない。

 

「私は、私の生い立ちについて、今までどこでも語ったことはない。問いに応じて、初めて語ったわけである。私は自分の過去の、特に生い立ちのことについて、語りたくないのである。」

 

哲学者の梅原猛氏は"学問のすすめ"という著書のなかでそう述べている。語りたくない理由は、自分の過去を「巨大な闇」と感じていたからである。その梅原氏が五十四歳の時、出版社の編集部からの依頼に応えて自分の"生い立ち"を振り返ることになるが、氏にそれを決意させたものは、年齢のようである。

 

「私は、ここで問いに応じて、まず語ろうとするのは、私の人生の回顧である。私は、もう五十歳の半ばに達した。昔から人生五十年といわれるから、五十四歳といえば、とっくに人生の定年を過ぎているわけである。」と綴っているからである。

 

どうやら人はあの世が近くなると過去を振り返りたくなるのかもしれない。

 

「私は、いつも、未来のことばかり考えて、過去を振り返るひまがほとんどなかった。―中略―しかし、この頃ふと過去を振り返ってみることがある。年のせいかもしれない。そして、過去を振り返った時、私は、暗然たる気持ちになる。」

梅原氏を暗然たる気持ちにさせる過去とは、いったいどのような過去だったのかについては、先述の著書に詳しいので興味のある方は一読されたい。ここには、ごく簡単に紹介しておくが、こうである。氏が大正十四年に仙台の肴町に生まれた時、父親は東北大学の学生で、母は女学校を卒業したばかりであった。両親は、当時はまだ恋愛が野合視されていた時代にあって、周囲の反対を押し切って結婚した。下宿先の娘と恋仲になってしまった愛知県にある父の実家・梅原家では、その結婚に一家全体が反対であった。そんなわけで二人の間に生まれた男の子が祝福されるはずがなかった。若い二人は悩み、おそらくその苦悩がストレスとなったのだろうか、とうとう二人とも結核を患うことになる。父親は梅原家に引きとられ、そこでの療養の結果、回復するが、母は二十歳の若さでこの世を去ってしまう。母親が死んで、両家は幼子の扱いに困った。父親は大学に戻ったので、わが子を育てることが出来ず、父の兄夫婦に養子として引き取られた。

 

「過去は闇のようなものである。そこで私が生まれ、そこで私が育ち、そこで私が喜び、そこで私が悲しみ、そこで私が苦しんだはずなのに、その過去は、何か、無限に暗く大きい闇のように、一切をつつんでそこに横たわっている。少年時代のことでも、青年時代のことでも、あるいは壮年時代のことでも、一切を暗い大きな闇がつつんでしまっているように思われる。そして、私はこの大きな暗い闇がこわいので、眼を、未来に向けて仕事を続けてきたのであろうか。」と自問自答の末に、次のような心境に到達したようだ。

 

 「これまでできるだけ感情を抑えて事実を語ったわけであるが、私は、まず、父と母に感謝しなくてはならないと思う。」

 

 父親は東北大学の講師を経て、トヨタ自動車の技術部長から常務となり、トヨタ中央研究所の所長を務めたようであるが、トヨタが世に出した"コロナ"は、父親の開発した自動車だという。氏は両親への感謝の理由を哲学者らしくこう述べている。

 つまり、「私は、父からロゴスを受け継ぎ、母からはパトスを受け継いだと思う。」と。

 

 内観もそうであるが、人は過去と徹底して向き合うことで、謙虚になれるように思う。梅原氏もそれまで避けてきた「過去という巨大な闇」と向き合った結果、まるで深い内観を成し遂げた人のように、謙虚で含蓄のある言葉を残している。

 

 「人間の前には、果てしない未知の海が横たわっている。人間は、自分を偉いと思っているが、とんでもない。人間が知っていることは、知らないことに比べて、問題もなく小さい。どんな優れた発見でも、この未知の砂浜の一粒の砂を、それと比べれば、限りなく小さい既知の砂山に、移すに過ぎない。学問をするということは、結局、この未知の世界がいかに広いかを思い知ることであると思う。」

 

2014年5月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ