2010年6月アーカイブ

先回に引き続き,今回も学生のレポートを掲載することにしました。というのも,前回に掲載した松本レポートに勇気をもらって,祖父を亡くしたばかりの学生が内観に取り組んだからです。授業では,みんなの前で朗読してくれたのですが、途中から声を詰まらせてしまい,最後までは読むことができませんでした。そこで,本欄にレポートの全文を掲載することにしたというわけです。もちろん,ご本人の承諾は得てあります。

 

米津綾香(子ども臨床学コース3回生)

〇授業の感想

 前回の授業でいちばん印象に残ったのは、松本さんのレポート発表です。松本さんの祖父についての話を聞いていると、自然と自分にとって祖父がどんな存在だったかを思い出しました。正直、祖父を亡くしたばかりの私にとって、松本さんの話は祖父に対して何もしてあげられなかった自分の無力さをつきつけられているようでつらかったです。このレポートでは、私の気持ちの整理のためにも祖父について書こうと思います。

 私の祖父は62日の午前29分、81歳で亡くなりました。祖父の死に顔はとても安らかで、今にも「わしはまだ死んどらんぞ」と笑いだしそうな顔でした。祖母や母にはとても厳しい人だったようですが、孫である私や妹に対してはいつも笑顔で優しい、本当に"いいおじいちゃん"でした。

 私がまだ小学生の頃のことですが、祖父に関するエピソードで特によく覚えていることがあります。その頃、私はぬりえにはまっていて、よく友達と一緒に色ぬりをして遊んでいました。ある日、祖父に私と友達のぬりえのどっちがよりきれいにぬれているか尋ねました。私はかなり自信があったので、「どっちも上手にぬれているよ」とはぐらかす祖父に「どっちかはっきり決めて」とつめよりました。悩んだ末、結局祖父は友達の方を選んだので、私はものすごくがっかりしたことをよく覚えています。そして、友達が帰った後に私は祖父に不満をぶつけました。「絶対私の方が上手だったのに...」とつぶやくと、祖父は困った顔で「どっちか決めたら、選ばれなかった方がかわいそうだからね」と言いました。その言葉を聞いて、私は自分がいかにちっぽけで自分勝手だったかを痛感しました。そして、祖父の優しさや人としての器の違いのようなものを感じたのです。心から"おじいちゃんってかっこいい"と思いました。

 祖父が入退院を繰り返すようになったのは3年前からです。ちょうど私は奈良で一人暮らしを始めたので、「もしもの時に間に合わないかもしれない」と親から言われました。そのため、今回祖父が危篤であると電話をもらったときは、とりあえずの着替えだけ持って慌てて帰省しました。その後、祖父は少し回復し、私と祖母、母が交代で祖父のそばにいるようになりました。病室で祖父と二人きりになることもありました。はじめは祖父が何を言っているのか聞き取れず、苦しいのか、水がほしいのか、何をしたらいいのか分からないことがしんどかったです。でも、祖父の手をぎゅっと握るとしっかり握り返してくれたり、水を飲ませてあげるとにっこりと笑ったりして、次第に気持ちに余裕をもって見守ることができるようになりました。

 最後の一週間は、いろんな人がお見舞いに来てくれました。祖父のベッドを78人で囲んで、祖父に関する話をみんなでしました。私はそんな話をなんとなく聞いていて、人をみとるというのはその人の人生をなぞりながら、自分とその人の関係を振り返ることなのかなと思いました。

 大学生になってからは帰省した時しか祖父に会えず、私は家族の中でも祖父の近くにいられる時間が少なくなってしまいました。だからこそ、ある意味、祖父の死を誰よりも受け入れる覚悟ができていたように思います。そのせいか、私は祖父が死ぬことよりも、祖父が亡くなった後、祖父の顔や声が思い出せなくなり、「祖父のいない日常」が自分にとって当たり前になってしまうのではないかと思い、急に怖くなりました。私は自分の中の祖父が消えてしまうことが何より怖かったです。

 けれど、いざ祖父が亡くなってみると、通夜や告別式、初七日をすませていく中で祖父を忘れてしまうのではないかという恐怖は次第になくなっていきました。祖父の葬儀には、祖父と同じくらいの年齢の人からまだハイハイをしているような赤ちゃんまで出席していました。そんな様子をなんとなく見ていて、命というのは一人の人間の中で完結しているのではなく、人と人でつなげていくものなのだと感じました。祖父と祖母がいて母が生まれ、母と父が出会って私がいるのなら、私の中には確実に祖父がいます。

今までは、大した実感もなく道徳や倫理の教科書通りに「命は大事」なのだと思っていました。自殺や殺人をしてはいけない理由はうまく説明できないけれど、命を大切にするのは当たり前で、私にとってはただの一般常識にすぎませんでした。けれど、祖父の死や自分のこれからの人生について考えているうちに、命はつないでいくものであり、死にゆく人と残される人の間には必ず何かしらの絆ができているのだと思いました。祖父が最期にどんな気持ちであの世に旅立ったのか、私は想像することしかできません。けれど、祖父が託してくれた命や思い、生き方を、自分の中で温めてまた次の誰かに託したいと思いました。

祖父の死は悲しくつらいものですが、今でも私は祖父の笑顔や、握った手のぬくもり、握り返してくれたときの力強さ、亡くなった後の頬の冷たさや安らかな死に顔をはっきり覚えています。そして、もしもそれらを思い出せなくなったとしても、"私の中には祖父がいる"という誰も否定できない確信が私にはあります。私がこの先の人生で祖父を見失うことはないでしょう。

「子ども臨床心理学」で内観療法を講じているが、講義だけでは十分に理解することは難しいので、実際に取り組んでもらった。以下に、学生の内観レポートを紹介するが、授業の中でそのレポートをみんなの前で朗読してもらった。すると、「共感しました」と手を挙げて、自分の内観を披露する学生が二人三人と現れた。しかも、中には涙を落としている学生もいて、さながら教室は、集団内観療法の場となったように思われた。

 

松本愛弓(文学部1回生)

 

さて、今回の課題は内観である。「自分がしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」について調べるにあたって,誰に対して内観しようかと考えたときに、本当にたくさんの人の顔が頭の中に浮かんできて、その人たちの中から一人を選ぶだけでも、すごく時間がかかった。それだけ、今までたくさんの人に支えられて生きてきたのだろう。結局、悩みに悩んだ末、私の自慢の祖父について書くことに決めた。

 祖父は昔、高校の教員をしていた。教科は社会科、主に倫理を担当としていたのだが、昔は教員の数も足りなく、世界史や日本史を教えることもあったそうだ。そのこともあって、小・中学生の頃の私の勉強の一切は祖父に任されていた。日々の宿題に始まり、夏休みの自由研究、読書感想文、交通安全ポスター。祖父は嫌な顔ひとつせずに、「じぃちゃんはなぁ、あゆのつえぇ(強い)味方だからな。」と言って、一緒に取り組んでくれた。一人暮らしを始めて間もないころにかかってきた電話でも、祖父は何回もこの言葉を繰り返した。涙が止まらなかった。寂しさや不安、その他のいろいろなものから、祖父が守ってくれているような気がした。心があたたかくなった。この言葉は、わたしにとって魔法の言葉なのである。

 また、小さいころに小児喘息を患っていた私は、毎年のように入退院を繰り返していた。そのときに、共働きの両親に代わって、お昼の間の付き添いをしてくれていてくれたのも、祖父だった。だが、これには哀しい思い出がある。一緒の部屋で入院している同じくらいの年齢の子は、だいたい母親が一緒に居ることが多かった。それを見た私は、「お母さんがいい」「じぃちゃんは帰って」というひどい言葉を祖父に投げかけてしまったのだ。それも一度だけではない。それを聞いた祖父は、いつも少しだけ寂しそうな顔をして、「すまんなぁ。お母さんが仕事終わるまでは、じぃちゃんで我慢な。」と繰り返していた。その頃の自分は何も考えていなかったのだと思うが、今思い返すとすごく心が痛い。

このように、私が祖父にかける迷惑は、祖父にとっては「迷惑」ではないことが多いのだが(これはよく祖父が言っていた)、言葉で傷つけたことは数え切れないほどあるのだ。高校生の頃は、小学生の頃と変わらない子ども扱いをする祖父の態度を受け入れることができず、「分かっとるけん」「もう何も言わんとって」「あっち行って」など、祖父を拒絶する言葉を平気で口にしていた。それでも祖父は怒ることなく、何も言わずに私から離れていくのだった。私は少し罪悪感を感じながらも、「ごめんね」と素直に謝ることができなかった。実は、今でもきちんと謝ることができていない。大学生になって少し落ち着いた私は、もうあまり祖父を傷つけるような言葉を発したりはしていないし、授業のことで何度か電話をかけたりもしているのだが、今更自分の気持ちを伝えるのは照れ臭くて、結局何も言えていない。

祖父が今まで私にしてくれたことは、このレポートには書ききれないぐらい、まだまだたくさん残っているが、私が祖父にして返したことは、必死に考えてみても1つや2つぐらいしか思いつかない。中学生になったころから、私の家にはサンタクロースが来なくなった。そこで妹と相談して、今度は自分たちがサンタクロースになることに決めた。それから毎年、クリスマス・イブには両親と祖父母の枕元に、プレゼントを届けに行っている。初めてプレゼントを贈った日の次の日の朝、祖父は1番に私と妹のところに来て、「じぃちゃんこの歳になって、初めてサンタさんにプレゼントもらったよ。じぃちゃんは世界一幸せなじぃちゃんや。」と言った。私と妹は少し気恥ずかしくて、「よかったねー。」と笑ってごまかしたが、この言葉はすごく嬉しかった。これが、1つ祖父に対してできているお返しかなと思う。2つ目は、たくさん頼ることだ。少し前に提出した、民間療法や赤ちゃんの授乳の仕方についてのレポートについても、1番に祖父に話を聞いた。周りから見ると、ただ祖父に甘えているだけなのかもしれないが、「私が頼る」ことが、祖父にとっての喜びであることを、19年間一緒に過ごしてきた時間のなかで感覚的に感じているのだ。だから、これからも可能な限り祖父に語りかけ、いろんな話を聞きたいと思っている。

長くなった上にまとまりのない文章になってしまったが、このレポートを書いているときは一度も手が止まらなかった。それぐらい、私の中の祖父の存在は大きなもので、祖父に対する想いは強いものなのだろう。また、祖父との思い出を振り返るなかで、その当時の自分を客観的に見つめ直すこともできた。昔はあまり考える機会がなかった祖父の気持ちも、今は冷静に理解することができる。逆に、昔抱いていた祖父に対する気持ちで、今はもうなくなってしまったものもあるのかもしれない。

最後に、祖父にしてもらったことや迷惑をかけたことに対して、して返したことが驚くほど少ないことに衝撃を受けたので、これから残された時間のなかで、精一杯お返しをしていきたいと思う。いろいろな方法があると思うが、今考えているのは、夏休みに自動車の免許を取得して、祖母と一緒に温泉に連れて行ってあげるという約束を果たすことだ。これは、中学生のときに私が何気なく提案した話なのだが、祖父は今でも忘れずに覚えてくれている。だいすきな祖父の笑顔を見るためにも、必ず叶えてみせたい。

 

9回日本サイコセラピー学会大会(人見一彦大会長)が「サイコセラピーの現状と展望―子ども、家族、成人の臨床―」というテーマでシンポジウムを開催した際に、私は内観療法の立場から発言するよう求められたので表題のテーマについて述べた。内観は、「身調べ」と称する修行法から生まれており、「内観法」と呼ばれて悩みの解決法として実践されてきた。1978年に内観学会(現・日本内観学会)が設立されて以来、内観は、「心理療法としての内観」が注目されるようになった。具体的には、京都でスタートを切った第1回大会では16本の研究発表が提出されているが、2007年に開催された第30回富山大会までの一般演題の総数は、576本を数えている。さらに、1988年に内観医学会(現・日本内観医学会)が設立されたことにより、内観研究はますます加速されるようになった。内観界には、二つの国際学会が生まれている。一つは日欧を開催地とした「国際内観会議」であり、もう一つは日中韓を舞台にした「国際内観療法学会」がある。前者は日本内観学会が母胎となった。後者は日本内観医学会を母胎として生まれている。内観の国際化にあたって、まず直面するのは内観用語の問題である。そこで、当日のシンポジウムでは、「心理療法の視点からみた『内観』」について論じつつ、「内観療法の定義」についても触れた。さらに、「内観への偏見」や「内観の歴史」や「内観のエッセンス」などについても述べた。その内容に興味のある方は、日本サイコセラピー学会誌第9巻1号(2008年12月)をご覧いただくとして、今回は、ある読者からの要請を受けて、以下に、英文要旨も併せて掲載しておいた。

 

Naikan-Therapy

-Its past, present and future-

 

Abstract

Naikan, which originated from "mishirabe", one of the Japanese ascetic practices, has been practiced under the name of "Naikan-method" for the purpose of solving problems in life. Since the foundation of "The Naikan Association" (today it is called "The Japan Naikan Association") in 1978, Naikan has been attracting more and more attention as one of the methods of psychotherapy. For example, the number of research papers presented at the 1st conference of Naikan in Kyoto was sixteen, and by 2007 when the 30th conference of Naikan was held in Okayama, an overall total of general subjects presented at the conferences reached to 576. Furthermore, the research activities of Naikan have been accelerated since the establishment of The Naikan Medical Association in 1988. In the field of Naikan, there are two international associationsThe International Naikan Congress, held mainly in Japan and Europe, and The International Congress of Naikan Therapy, held mainly in Japan, China and Korea. The former was founded by The Japan Naikan Association, and the latter by The Naikan Medical Association.

It seems very important to define and clarify the technical terms of Naikan to promote further internationalization of Naikan. Then, in this paper, the terms used in Naikan, Naikan-hou (Naikan method) and Naikan-ryohou (Naikan therapy) will be explained. After that, Naikan will be generally discussed from the viewpoint of psychotherapy. The definition of Naikan-ryohou (Naikan therapy) will be outlined here, too. This paper will also deal with topics like "prejudice against Naikan," "the history of Naikan" and "the essence of Naikan."

 

 教壇から一方的に講義をしているときには気付かないことであるが,学生自身に「考えさせる授業」を展開して見ると,二十歳前後の若い感性には驚かされることが少なくない。授業は毎週のようにレポートを課し、それを授業の中で取り上げて、時にはグループで話し合ったことを全体で討議したうえで、「臨床心理学」を講じている。確かに二十年前後の人生経験は短いといえばそうかもしれないが,真剣に考えぬかれた内容は,含蓄に富み,教師自身が教えられることもある。今週は,「もし、あと1カ月で人生を終えるとしたら,あなたはどうしますか?」という課題を与えたところ,みんな真剣に取り組んでくれた。中には,原稿用紙10枚にも及ぶレポートを披露してくれた学生もいて,90分間があっという間に過ぎてしまったほどである。全員のレポートを紹介したいくらいであるが,紙面の都合もあるので,紹介は一人だけにする。

ところで,ある製薬会社が20代から60代の男女,千人を対象に前述の質問でアンケート調査をした結果によれば,1,親孝行をしたい、(41%) 2,お世話になった人に恩返しをしたい、(36%) 3,世界中を旅行したい、(31%) 4,食べたかったものを食べたい、(21%)となったようであるが,学生のレポートもそのアンケート結果とほぼ同じような内容になった。具体的に言えば,アンケートの結果では,なんと一位と二位を合わせた七七%の人が,親やお世話になった人に恩を返すという生き方を望んでいることが分かった。吉本伊信は,内観に「お世話になったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」という3つのテーマを導入しているが,ひょっとして「人は何のために生きているのか」を問うためにそれを考案したのだろうか,と思った次第である。学生のレポートを読んで,改めて「死から生を考える」ことの意義を痛感することになった。以下に学生のレポートを紹介しよう。

 

永井雅子(生活環境学部・生活文化学科・3回生)

 

今回のレポートの課題は、「もし、あと1カ月で人生を終えるとしたら、あなたはどうしますか。」というものである。内観療法をするときに、「死」というのがとても大切なのだ、と先生はおっしゃった。私の中で、「死」と内観療法がどうつながるのか、まだぼんやりとしか形は見えない。というより、まだ内観療法についてさわりしか知らない私である。その2つのかかわりなど、まだ偉そうに語ることなどはできるはずもなかろう。

 ひとまず、この課題について考えてみようと思い、パソコンを開いたのだが、まず始めに私が思ったのが、1カ月は意外と長いということである。もし、「明日で人生を終える」ならあきらめがつく。おそらく、これまでの過ごしてきた人生をふりかえり、家族や友人に看取られたい、と綴るであろう。

 が、何しろ1カ月である。考える時間もあれば、行動する時間もあるのである。1カ月丸々遊び呆ける!でも良いが、はたしてそんなに1カ月毎日遊ぶ人がいるのか。周りはみんな学校に行っているではないか。そもそも、約30日間も遊んでいたら、飽きるだろうと思った。

そこで私は、今やりたいこと、ベストテンをあげてみることにした。すると、和太鼓を習いたい、本を書いてみたい、カメラがほしい・・・などの自分だけの願望とともに、小学校の時にお世話になった子にもう一度会いたい、両親や恩師に感謝したいなどの、人と会いたいといった願望、この大きく2つあることに気がついた。

 ひとつは、今自分の興味のあることをしたい、というもの。二つ目は、自分の記憶の中に大きく残っている人の存在を考え、会いたい、というものである。

「死」を考えることで、「今」の自分と「過去」の自分について考えることができる。先生が前回の授業でおっしゃったキーワード、「自分自身を知る」。そのことに、今回の課題の意義があるのではないか、と思った。

 「死」というのは、一見怖いもの、そして私たちからとても遠いもののように思われる。そう思っていた。が、それはきちんと向き合ってみると、自分の生活を輝かせてくれるものなのだ。「生」を見せてくれるものなのだと気づいた、今回の実りあるレポートであった。

 

 さて,この話は昨日の授業でも話したことであるが,「にぃにのこと忘れないで」というテレビドラマを見る機会があった。実話を元に作られたドラマのようだ。主人公の川井恵介君は,十五歳で脳腫瘍を発病したが,彼の夢は物理学者になることだった。その夢に向かって東大合格率を誇る高校に見事合格を果たすが,直後に病魔に冒されて,東大への進学は断念せざるを得なくなる。彼は自暴自棄になって,家族や周囲に当たり散らす日々が続く。そして,母親は,絶望感に嘖まれる息子に「僕は何のために生きているの?何のために生まれてきたの?」と問われて,無力を味わい,自責の念に苦しんだ末に「それは自分自身で考えるものよ!」と返した。 母からそういわれた息子は,二三歳の若さでこの世を去るまでの八年間,死と向き合いながら,そのことを考え続ける。そして,死期が迫った頃,外泊で家に帰る。その晩,自室の窓から夜空を見ていると,天空に走る流れ星に出合う。彼はその流れ星に願を懸けた。とっさのことであった。彼が祈ったことはといえば,自分が死んだ後の家族の幸せである。そのとき,彼は悟った。

僕は、家族やみんなを愛するために生まれてきたんだ」と。そして、やすらぎのうちに旅立ったのである。

 

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