2010年10月アーカイブ

表題は、去る1023日(土)に奈良女子大学が、地域貢献事業の一環として開催した公開講座で、教育講演を行った際の演題である。当日は、主婦や教師に混じって、本学の学生も参加して、飯田順三氏(児童精神科医)の講演に耳を傾けている。そこで、私のもとに届いた学生の感想を本欄に紹介しようと思う。なお、当日は、教師からは関わりのある子どもの問題について、そして、一般参加者からは、わが子の気になる問題について質問が出たが、飯田先生はそれらに対して、具体的で納得のいく回答を示され、大変有意義な教育講演であった。そして、連続講演会も次回の1113日(土)が最終回である。テーマは「働き盛りとアルコール問題」について<家族と自己再生に向けて>講演と体験発表が予定されている。乞う、一般参加。

 

飯田先生の講演の感想

米津綾香(子ども臨床学コース 3回生)

 

 飯田先生のお話しを聞くことができた。とても貴重な講演だった。「最近の子どもはよくキレる」と言われるし、少年犯罪や自殺は増加していると思われがちだ。けれども、実際の統計データは決してそのようにはなっていないし、発達障害などの問題にも目を向けなければならないのだとわかった。

 少年犯罪を取り上げたテレビ番組などでは、「今の子どもは何をするかわからない」「子どもは変わった」といった言葉もよく耳にする。先月から、私はある小学校でスクールサポーターの一人として週に一度小学生と交流をもつようになった。彼らと昔の自分や周りにいた友達を比べると、世代の違いを考えても、疲労感や虚無感、焦りや苛立ちのようなものを強く感じる。もしかしたら、昔の私たちも大人の目から見ればそのように見えたのかもしれない。けれども、やはり今の子どもたちをとりまく環境の変化はすさまじいものだと思う。子どもが変わったというよりも、子どもをとりまく環境や子どもに向けられる大人の目が変わったのだろう。飯田先生のお話にもあったように、携帯電話やインターネット、ゲームがあって当然の時代に生まれた子どもにとって、それらを使いこなすことが他者とコミュニケーションをとるうえで必要不可欠となり、自身の想像力を思う存分発揮して遊ぶ機会が少なくなっている。

 「最近の子どもはよくキレる」「今の子どもは何をするかわからない」と言われると、子どもが悪者のように感じられる。けれども、そうなる環境をつくりあげたのは大人である。対人関係が下手になってきているという指摘もあるが、それは子どもだけでなく大人であっても同じはずだ。今の時代、誰もが対人関係で何かしらの悩みやストレスを抱えているだろう。携帯電話やゲームの普及がコミュニケーション能力に与える弊害はさまざまなところで議論されているが、今の時代で携帯電話やインターネットをなくすことはまず不可能である。お互いの顔を見ながら会話をするのがいちばんではあるが、これからは、携帯電話やインターネット、ゲームなどの普及を積極的にとらえ、これらの新しいコミュニケーションツールとのうまい付き合い方を考えていかなければならない。

 

                      飯田先生の講演を聞いて

北村涼香(文学部人間科学科2回)

 

私は、アルバイトの関係で午後4時過ぎまでしか講演を拝聴することができなかったのだが、思った範囲でレポートを書きたいと思う。

 冒頭ではさまざまなデータを見せていただいた。私が興味深いと思ったのは、1日に3~4時間以上も携帯電話を扱う生徒が50%以上いる一方で、読書をしていないわけではない点である。携帯電話は、昔なら生徒が当たり前のように持っているものではなかった。携帯電話によって、私たちは家族を介せずにさまざまな人と連絡を取ることができるし、インターネットもできるし、ゲームもできる。最近の形態では漫画や小説をも読めたりするから、一見読書の必要性がないようにも見える。だが、今の子は読書もしているのである。あくまで、自分で言う分には。

「今の子」が勉強しなかったり、読書しなかったりするのを携帯電話のせいにしている人がいるが、データから見ればそうではなかったのである。

次に、キレる要因についてのお話があった。いくつか挙げられていたが、私が気になったのは対人関係の困難という点である。現代人は他者との密接な関係を回避する傾向にあるらしい。現代人は耐性に乏しく、短絡的で衝動的な傾向があるらしい。

私が思ったのは、「他者との密接な関係」は「他者に依存すること」に近い気がした。「依存」という言葉によいイメージを持つ日本人は少ないはず。だが、耐性に乏しいから他者との密接な関係を成立させることができず、それがキレる要因の1つとなるのなら、どのようにふるまえばよいのであろうか。誰かに依存して密接な関係を築けたとしても、それはそれで、「自主性がない」などという言葉で否定されるのではないだろうか。何事もバランスが大事、というきれいごとでまとめられてしまうのだろうか。

また、親子愛についても話していただいた。これは、授業でも取り扱っている内容であるから理解しやすかった。つくづく子どもを愛し、受容することの大切さを実感した。

 

去る102日の土曜日に、奈良女子大学の記念館において「いのちの時代を迎えてのメンタルヘルス活動」と題して信州大学病院精神科メンタルヘルス外来専任医の巽信夫博士に基調講演をしていただいた後、「自殺対策の現状」についてのシンポジウムが行われました。

 シンポジストとして、「日本における自殺対策の現状」に詳しい東睦広医師(日本赤十字社和歌山医療センター)と「中国における自殺対策の現状」に精通している王紅欣医師(中国無錫市精神衛生中心)が話題を提供してくれました。フロアーから、自分の自殺企図体験を語る参加者もいて、深くて重い内容が話題になりました。

閉会後の夕食会の席で、東医師から第二弾を和歌山で企画したいという話しが出ましたが、それがこんなに早く実現化するとは考えてもいませんでした。最前線の臨床現場で自殺問題に取り組んでいる臨床医は、日本だけでなく世界の現状は、相当に切実で深刻な事態だと受け止めているらしく、ワークショップ企画の動機をメールで伝えてきました。私に座長を務めてほしいとの依頼でしたので、応諾しました。以下には、東先生から送られてきたメールの一部をご本人の了解を得て、以下に紹介することにします。詳細は、当HPにて案内しています。

(ついでに、明後日の23日(土)は、奈良女子大学の記念館にて午後1時半より「最近の子ども事情」と題する教育講演が奈良県立医科大学の児童精神科医である飯田順三先生をお招きして開催されます。参加費は無料。)

 

    和歌山県の自殺率は近畿おろか全国でも悪い状況であります。是非和歌山の自殺率の減少を望みます

    和歌山での重篤な自殺未遂の方は一回目での未遂が多いことが要点です。ですから早期発見のゲートキーパー育成はとても重要な課題です。保坂隆先生の「心の安全パトロール隊」は和歌山において是非定着すべき提案です。

    今回のワークショップの目的は(1)和歌山における自殺予防の啓蒙(2)保坂先生の提案する「心の安全パトロール隊」の和歌山導入のための啓蒙(3)アジアの自殺率の高さを危惧し、将来的には「アジアにおける自殺予防マニュアル」の作成のきっかけにしたい点。(4)韓国での内観シンポジウムの「自殺と内観」参加者によるワークショップ開催により日本中国・韓国をリーダーとしたアジアの精神保健福祉の啓蒙を開始したいこと。

    NPO活動を主体とした交流を中心とし、厚労省主導の政策重視による「動きにくさ」を克服した草の根運動の一歩と考えています。

    同様の内容のワークショップはすでに奈良女子大学にて開催されましたが、自殺率において全国でも有数の低さを誇る奈良においての開催以上に、和歌山での開催の意義があることは言うまでもありません。

    全国でも自殺率の高い和歌山において、今後自殺率減少を継続的に達成出来れば、「アジアにおけるフィンランド」といえる立場を確立し、可能であれば和歌山の地で 「アジア自殺予防シンポジウム」の開催を企画したいと思います。壮大すぎる企画ですが、和歌山の「麦の郷」の活動が世界リハビリテーション学会においてベスト・プラクティスとして認定され、精神神経学会に表彰され、さらにジェームズ三木に脚本され映画化された歴史を考慮すると決して夢物語ではありません。

  皆様方のご協力と、まさに自殺をせんとする当事者を救うためのより実践的

  な活動に発展するために、祈念しています。

 

                      東 睦広拝

                     日本赤十字社和歌山医療センター

 先週の本欄で告知しておいたが、昨夜、奈良女子大学の記念館を会場にして古武術家の甲野善紀氏と対談させてもらった。対談者としての筆者の役目は、参加者の方々を"甲野ワールド"の入り口に案内し、無事に出口までお連れすることであった。つまり、旅行でいえば添乗員のような仕事である。添乗員として、まず気になっていた事は、参加人数であったが、さすがに全国区の講師をお迎えしたことで、定員の百名を越すことが出来て安堵した。次は、内容である。しかし、それも案ずる必要はなかった。甲野先生は、1時間前に到着されて、控室でお着替えになり、挨拶に訪れた剣道部の顧問を相手に実演を開始された。開始時間前に一汗かいたこともあり、甲野ワールドの幕開けは順調に滑り出した。

 紙幅の都合で内容の全てを本欄でお伝えすることは出来ないが、ひとつだけ紹介しておこう。参加者の中に下半身が不自由な方がいて、次のように問いかけてきた。

「わたしは、一人で立ちあがることができません。道路で転倒したことがあって、一人で起き上がることが出来ず、困ってしまいました。何とか一人で起き上がれるようになりたいのですが、どうすればよいか教えていただきたいのです。」

甲野氏は、その人を舞台に上げて、転倒した時の状態を再現してもらい、ご自身も同じ姿勢になった上で、自分だったらどうするか、あれこれ姿勢を変えて、実演して見せてくれた。そして、その方に自分と同じ姿勢をとるよう助言したところ、なんと奇跡が起こったのである。

「自分で起き上がれるなんて、初めてです。ありがとうございました。」

うれしさのあまり、言葉数は少なかったが、感激は十分伝わってきた。その場に居合わせた参加者から、自然に拍手が起こった。何度も頭を下げて、甲野先生と会場の拍手に応えるその方の姿を見せられて、今更ながら、人の身体には未知なる可能性が潜在していることを痛感した。かつて甲野先生が、現役生活をあきらめかけていた巨人軍の桑田投手を再生させたことはよく知られている。今回の公開講座は、日本伝統の古武術の技が、この時代の人たちにとっても役立つことを示してくれたように思う。それこそ地域貢献事業になったと言ってよいだろう。次週の1023日(土)は、午後1時より同じ会場で、奈良女子大学の教員(臨床心理士・臨床発達心理士)が子育て及び封関係や家族問題に関する質問に答える心理相談会と奈良県立医科大学看護学科の飯田順三教授(児童精神科医)による教育講演(最近の子ども事情)が開催されることになっている。

参加費は無料で、当日参加も可能である。ご報告かたがたお知らせまで。

 

ご縁があって、来週の金曜日(1015日の午後5時)に奈良女子大学の記念館において、古武術家の甲野善紀氏をお迎えし、対談をさせていただくことになりました。対談後には、実演もあり、大いに楽しみです。私自身は甲野氏との対談は二度目になりますが、お会いするのは3度目で、一度は大和内観研修所まで足を運んで頂き、内観面接の様子を見学していかれたことがあります。内観研修所はかつて"内観道場"と呼ばれておりました。いまでも近所の人たちは、そう呼んでおり、内観を"内観道"と呼ぶ人もいます。どこか古武術とつながるところがあるように感じております。

さて、内観のことはともかく、私がお会いした甲野氏の印象は、何からでも学ぼうとする姿勢が強く、話しの間口が広いということです。たとえば、固定観念というものがいかに厄介なのかということを説明するのに氏が例に挙げたのは、"缶切り"のことでした。

 「缶切は缶詰が出来てから40年以上も発明されなかったんですよ。かつては先のとがったノミで開けたり、銃で撃ち砕いて開けたようですよ。それというのも、缶詰は、軍隊で用いたが、どんなに乱暴に扱っても壊れなくて丈夫なもの、というキャッチフレーズが独り歩きしており、そのせいか、それを簡単に開けようという発想が生まれなかったのです。そいう固定観念の為に、缶切は長い間発明する人がいなかった。」

 なるほど、そう言われてみると固定観念というものがいかに人間の行動を縛っているか、納得したものです。甲野氏は、固定とか不変を停滞と同義に考えているフシがあります。

 養老猛司氏と対談されたときに、養老氏が時間に遅れたたためにずいぶん待たされたそうです。遅れてやってきた養老氏が自分の遅刻を謝ったときの甲野氏の言葉がふるっています。

 「私は自分の体さえあれば、どこにいても退屈はしません。待っている間、自分の体を観察していました。」と答えたそうです。さすがの養老氏もその言葉にいたく感銘を受けたらしく、そのことを別の場所でも話題にされたようです。

 ところで、前回の私との対談は、青森県弘前市で行いましたが、控室で話しているときでも本番とまったく変わらず、技のことでちょっとした質問をすると、すぐに立ち上がって実践して見せてくれるのです。旺盛な探究心には圧倒されてしまいます。相手がどんな立場の人であれ、発せられた質問にはそれこそ全身全霊で答えてくれるので、氏を慕う人は少なくありません。 当日はどんな技が飛び出すか、対談者としても大いに楽しみです。

中学校の同窓会が開催されたので参加した。12年前にも同窓会があったので、多くの人は、12年ぶりなのだが、今回はじめて出席した人もいて、その人にとっては仲間に会うのは、じつに44年ぶりということになる。ホテルの廊下ですれ違ったおっさんが、会場になっている宴会場に入ってきて、用意された名札を付けてはじめてかつて机を並べたクラスメイトだと知って、お互いに苦笑する姿が、会場のあちらこちらで散見された。

人間の記憶ほどあやふやなものはないが、お互いの記憶を持ち寄れば、あいまいだった記憶が、ちょうどジグソーパズルのようにはっきりとした形が出来上がっていく。それが同窓会の魅力であり、醍醐味でもある。

立食スタイルのパーテイ―なので、そこかしこで立ち話をしている。女性一人と男性三人が何やら真剣に話しているので近寄ってみると、次のような会話が耳に入ってきた。

 

M雄:小学校のとき、僕ら三人は問題児でみんなとは別の教室に移されたのを覚えているか?

 

S吉:そうだ、そういうことがあったなぁ。僕ら"山学校"と呼ばれていたもんなぁ。

 

T助:それにしてもM雄は、だいぶ荒れていたなぁ。僕なんかM雄によくいじめられたけど覚えているか?

 

M雄:僕は生後すぐに母親が死んだので、近所の人たちの世話になったらしい。とくにR子のお母さんには、乳まで飲ませてもらった。母親の愛情ではなく、近所の愛情で僕は生きることができた。今の時代であれば、僕は生きることはできなかったかもしれない。自分の子どもたちにそれを話したことがあるが、ほんとうに感謝している。小学校の5年生の頃、自分でもどういうわけか、毎日、朝から無性にイラつくことが多くなった。T助をいじめたことは全く記憶にないが、毎日イライラしていたことは覚えているよ。もし、そう言うことがあったと言うことであれば、昔のことだけど、今、きみに謝るよ。ごめん。

 

T助:そうか、きみには母親がいなかったのか。それで荒れていたのか。やっと謎が解けたよ。普段は優しい面もあったのに、突然、怒りだして僕を殴ってきたもんな。僕には殴られる理由が分からなかったけど、今その話を聞いて、これまでずっと抱いてきたわだかまりが消えたような気がする。同窓会に来てよかったよ。

 

 R子:うちの母は、M雄のお母さんとは親しくしていたので、いつもM雄のことを心配していたのよ。だから私は子どもの頃、M雄とは親戚なのかなぁ、と思っていたのよ。それにしても立派になったわね。私の母もM雄の出世を喜んでいるわよ。

 

<いじめられた子は、それをいつまでも覚えており、シコリとなっていることが少なくないのですが、一方、いじめていた子は、意外と忘れている事が多い。ところが、いじめていた子が、それを認めて謝るだけで、いじめられていた子のシコリが氷解することがある、ということを、今回の同窓会は教えてくれました。心理学徒としては、大きな知見を得たように思います。同窓生の中には既に他界した人もいて、同窓会の席で物故者追悼を行えば、モーニングワーク(喪の営み)になってよかったように思うが、どういうわけか今回は、行われませんでした。喪の作業は、あの世とこの世を繋ぐ大切な儀式なので、私は前もって準備委員に強く申し入れていたのですが、採用してもらえませんでした。私は断酒会の顧問をしており、記念大会や同窓会に出席する機会がありますが、そこではちゃんと物故者追悼が行われています。心理臨床という仕事を通して、喪の作業というのは、遺された者にとってこそ大事なワークだと思っていたのですが、今回の同窓会では、あの世の人にとっても大切なのだと言う場面に遭遇しました。たとえば、全員でフォークダンスを踊ろうとしたときですが、用意したCDが出だしから不調をきたし、担当者が必死に試みても曲にならない音が出てくるだけで、とうとう中止となりました。「さっき試聴したときにはちゃんと音を出していたのに・・・」とCDを準備してくれたJ子がつぶやいていましたが、その言葉を聞いたとき、私には物故した同期生たちからのクレームかもしれないと思ったことでした。その他にも、今回の同窓会は、ちぐはぐな場面が少なからず発生していました。ひょっとしたら、あの世とこの世は意外に近いのかもしれません。普段、私たちは、「あそこ」「ここ」とか、「さっき」「いま」という表現をします。それくらいに近いのかもしれません。きっと物故者の中にも今回の同窓会に参加したかった人がいたのでしょう。今更ながら、物故者を追悼しなかった事が悔やまれます。そして、それを残念に思う人が、この世とあの世にいたことは間違いないでしょう。>