2010年11月アーカイブ

 1125日に東京は飯田橋にある「家の光会館」を会場にして、アジア家族療法協会シンポジウム・プレワークショップが開催されたので出席してきました。参加者は、臨床心理士・教師・ソーシャルワーカー・セラピストなどで、日本のほかに、台湾・マレーシア・香港などでした。私は「内観療法への誘い」というテーマで、およそ7時間のセッションを担当しました。通訳が3人も付いてくれたので、質疑応答の時間もなんとか滞りなくこなすことが出来ました。そのおかげで、参加者も満足してくれたようでした。

「集中内観をすぐには導入できませんが、学校の授業に使えないでしょうか?」という質問があったので、大学の授業に内観を導入した様子を報告したところ、ある高校講師は、翌日の授業で生徒に記録内観を課したらしく、その反応をメールで伝えてくれました。ワークショップの成果を感じさせるメールをいただき、嬉しくなりました。以下は、そのメールの一文から抜粋したものです。

 

 

 

「昨日は貴重なワークショップを、本当にありがとうございました。私自身、とてもすばらしい勉強の機会をいただき、心から感謝しております。今日、高校での講義の日だったのですが、『内観の作業』を生徒にさせてみました。先生に生徒たちの文章をお送りしたいくらい、感動するレポートもかなりありました。そしてやはり、他の生徒の報告に刺激を受けたものもあったと言っていました。私はこの高校では3年目(週2日8コマ)なのですが、いつも『自己探求』も授業目標のひとつにしておりましたので、生徒たちも今回の作業に違和感がなく、『すっとした』『今日帰ったらすぐお母さんにお礼を言いたい。最近話してなかったけど』『亡くなったお父さんとの時間ができて、しあわせな気持ちになった』と、昨日先生がおっしゃっていらした感想とそっくりなものが、出てきました。学校の特色としてかなり家族環境が複雑かつ、本人も問題行動が多い生徒が多く、毎回レポートを提出させているのですが、ネガティブな体験をレポートにする子どもが多かっただけに、私自身本当に嬉しくなりました。1日だけの内観療法との関わりで、すぐに授業に取り入れてしまうのはどうかと迷いましたが、昨日の私の感動を生徒にも伝えたくて、使わせていただきました。来週の火曜日にも、あと2つの授業でこの作業を使わせていただきたいです。」

奈良県に住んで10年を迎える。引っ越してきたばかりの頃は、車で県内の名所旧跡を訪ねまわっていたが、この頃は、近辺の大和郡山市の街を散歩している。かつての城下町は、なにしろ道が狭く、しかも曲がりくねっている。住宅地を離れ、自由に足の向くまま川沿いの堤防やあぜ道を歩くのも楽しみであるが、古い民家が立ち並ぶ狭い路地を気の向くままに歩くのも悪くない。歩き疲れたら、公園のベンチに腰掛けるもよし、目の前に喫茶店があれば立ち寄ることもある。滅多にあるわけではないが、時間があれば、気に入っている喫茶家に向かう。自宅から5分とかからないところに、私が密かに隠れ家にしているオアシスがある。そこは普通の喫茶店とは違って、古物商と音楽喫茶と古本屋を兼ね備えた店だ。何よりうれしいのは、昭和時代の懐かしいジャズミュージックを、これまた昔懐かしいLPレコードで聴かせてくれることである。私はそこにある古本も気に入っている。誰にも邪魔されず、紅茶を喫みながら、ジャズを背中に浴びて、古本を読んでひと時を過ごす時間は格別である。先日は、表題の本に出合ったので、夢中になってしまった。著者は、1963年から日本語の勉強を始めて、長年、「神道」を研究してきたというユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグ氏であり、「日本人はどこから来たのか」という見出しが目を引いた。著者の結論を先取りして言えば、ユダヤ人が日本人の祖先だと云うのである。さらに、古代ヘブライ人と日本人の関係について「日本語とヘブライ語」の類似点の数々を列挙したあと、大和郡山市や大和内観研修所に冠されている「大和」という言葉が、じつは、ヘブライ語からきているという説には驚いてしまった。紹介したいトピックは多々あるが、今回は、その部分だけを本欄に示しておこうと思う。

曰く、「ヤマトという言葉は、今の日本では何の意味もない。これに反して、ヘブライ系アラム方言で『ヤ・ウマト』という二つの言葉は、数世紀の間には『ヤマト』と縮まったかも知れないが、古代ヘブライ人の象徴『神の民』という意味を持つ。」

つまり、「大和」という言葉は、元々ヘブライ語から来ていて、それは「神の民」を意味する言葉だというのだ。

本日、奈良女子大学にて表題の教育講演(植松直道医師)に先だって、体験発表が行われました。発表者は、次の4氏です。まず、トップバッターは、奈良県断酒連合会事務局長を務める高橋弘昌氏で、母親の自殺、父は酒に溺れて死亡、弟は家庭内暴力、職を失うと同時に妻は出て行った、など悲惨な酒歴を語ってくれました。2番目の濱田久美子氏は、家族の立場から夫の酒害に振り回された体験を発表されました。4番目も同じ家族の立場から海藤規子氏が発表してくれました。そして、3番目の筧百合さんは、大学生ですが、父親の酒害と母親の共依存のために辛い子ども時代を送ったことを切々と語ってくれました。彼女の了解を得て、体験発表の一部を本欄にて紹介したいと思います。

 

私の父はもとからお酒が大好きで、日本酒2合も飲めば、すぐに寝てしまうぐらいお酒に弱い人でした。自営業の父は、家で昼休憩をとることが多く、出かけている母の目を盗んでは休憩中にお酒を飲み、そのまま午後から仕事をすることもあったそうです。よく覚えているのが小学生のころ通っていたピアノ教室の話です。その教室の送り迎えは父がしていてくれました。またその教室の近くには行きつけの酒屋があり、父は私を迎えに来る前によく友だちと飲んでいたみたいです。たまに迎えに来るのが遅い時もあり、冬の寒い日にずっと教室の前で待たされた時は、「もう迎えに来ないんじゃないか」「捨てられたんじゃないか」とすごく不安になりました。

当然、平日の昼からお酒を飲んだり飲酒運転をすることで、父と母はしょっちゅうケンカしていました。父はお酒を飲まない時はあまりしゃべらず優しい人なのですが、お酒を飲んで母と喧嘩しているときは気が大きくなり、母に怒鳴るのが私は本当に嫌でした。また母は怒ると気が狂ったように父に手を上げたり、時には脅しのように包丁を持ったりすることもあったので、私は泣きながら父と母のケンカを止めていました。ちょっと大きな物音がすると「またケンカかなあ...」と憂鬱な気分になりました。恥ずかしくて友だちにも言えなかったし、母を怒らせなければ済むのにと父にあきれてばかりいました。その時はまさか暴力も振るわないし、ちゃんと仕事もする父がアルコール依存症だなんて思いもしませんでした。

父は晩酌として毎日2合の日本酒を飲んでいました。私が高校生の頃は、それ以外は飲まないと母と決めた約束らしく、守れているのだなと勝手に思っていました。しかし、夜中、母が寝ている間にこっそり飲んでいるではと思うような行動をとったり、浴室に酒を持ち込んで入浴中に飲んでいたのを母に見つけられたりしていました。不況のせいで仕事が年々減っていくことが何よりも不安らしく、仕事のない冬は特にお酒を飲む量が増えていたと思います。やはり父は普通にお酒が好きな人とは違うのではないかと思うようになりました。

 状況が変わったのは、私が大学2回生の夏でした。ケンカしたまま父が家に帰ってこないと地元の母から連絡があったのです。父は次の日には帰ってきたのでよかったのですが、母から心配だから帰ってきてと言われた東京の兄と私は帰省しました。どれだけお酒を飲んだのかわかりませんが、家に帰ってからもろれつは回らず、まっすぐと歩くことさえできていませんでした。父は兄に迷惑をかけたことがよっぽど堪えたらしく、泣きながらもうお酒は飲まないと謝っていました。そこまでひどくなった父の姿を見て、私はショックでした。私は奈良に来て一人暮らしを始めてからは、父がお酒を飲む姿や両親のケンカするところを見なくなっただけで、父の酒癖がよくなったのではと思い込んでいました。しかしよくよく実家の姉から聞くと、やはり父は隠れてお酒を飲んでいたし、ケンカもしていたのでした。

しかし、その時は家族の誰もが父がアルコール依存症であることに向き合おうともしませんでした。父がお酒を飲むのは仕事のストレスからくる鬱だと思っていましたし、後日行った病院もアルコールの専門医療ではなく、鬱を観てもらうための精神科でした。それからも父が隠れてお酒を飲むのは治りませんでした。飲酒運転が厳罰化されて私たちが父に飲酒運転をやめてと厳しく言えば言うほど隠れて飲むようになりました。また、精神科からもらう睡眠薬にも依存するようになっていました。

私が父のことを真栄城先生に相談したのは、今年の1月です。その頃の父は宴会や飲み会以外ではお酒を飲まないと母と約束し、私たちの前では晩酌をしていませんでしたので、家族の誰も父の飲酒への不満は薄かったと思います。その代わり、眠剤への依存は深まったようで、日中になっても意識が朦朧としている日もあったそうです。母からそんな父の状況を聞かされていなかった私は、アルコール依存症について卒論を書いてみたいと漠然と考え、若草断酒会を紹介していただきました。その時は、父の依存をどうにかしたいとは思ってはいませんでした。初めて例会で聞いた体験談は、父と同じような飲み方をしていた人、警察のお世話になった人、とても様々でした。本人の体験談以上に驚いたのは、家族の方のお話でした。母は父がお酒を隠していないか家中を探していたり、飲む量を監視していたのですが、家族の体験談でそれがアルコール依存症を助長させる行為だと聞いたからです。また、母が父を子ども扱いし、出かけるときは何を着るかとか、日常の世話をするのが私の家では当たり前でしたが、それも共依存というアルコール依存の家族に見られる病気なのだと知りました。

2月頃、断酒会に通っていること、アルコール治療の専門病院に行って完全に断酒させたらどうかということを母に話しました。母は父がアルコール依存症と認めることに戸惑っていましたし、父はもちろん否認していました。最初は病院に行くことさえ嫌がり、もうお酒は飲まない、次に飲んだら行くと今まで何にも変わらないことをまた繰り返すのかとうんざりしました。私は父と母が離婚したらこんなくだらないことで悩まなくて済むのに、とずっと思っていましたし、実家に住む姉は「死んだらいいのに」「一人暮らししてこの家を出る」と口ぐせのように言っていました。

3月頃からアルコール外来と断酒会に通ってくれるようにはなりましたが、それまでは父の隠れ酒が見つかってはケンカをし、強い眠剤を飲んでは近所の人、警察にまで迷惑をかけるという、とても辛い日々が続きました。実家の母と姉はそんな父の尻拭いにとても必死でしたが、私はそういった2人の行動が結局、父の断酒の妨げになることを説得しました。しかし、姉に「一緒に住んでないあんたに何がわかるの」と言われ、そういう風に私にまできつく当たる姉にも腹が立ち、私は生まれて初めて姉と言い合いになりました。姉とケンカをしたことがショックで父の飲酒のせいで家族がばらばらになる、と私は父を心底憎みました。家族の問題もすべて父のせい、父がアルコール依存症なんかになるからだと憎みました。

ですが、断酒会の方に「お父さんを許せるかわからないなんておこがましい。許す許さないの問題じゃないでしょ。」と言われたとき、自分がとても恥ずかしくなりました。「アルコール依存症は家族ぐるみの問題」というのは、断酒会の初めにいつも言う誓いの言葉なのに、私は少しも理解していなかったからです。

5月に専門病院に入院した父は今、一日断酒でがんばっています。母は相変わらず父を子ども扱いし、父を叱ってコントロールしていると母に対してどうしても怒ってしまいます。「お母さんがもっと理解してよ」と母にきつく当たり、なんで断酒会の家族の方みたいにアルコール依存症を理解出来ないのと自分のストレスをすべて母にぶつけてしまいます。もっと違う、もっと正しい母への接し方もあるはずなのに、私はそれがうまくできません。母と話をするときはつっかかるような言い方ばかりで、自分のイライラをコントロールできないときもあります。母が父と一緒にがんばっていることもわかっているはずなのに、私もアダルトチルドレンとして、こういった自分をうまく表現できない問題を抱えています。父や母ばかりにアルコールの問題、共依存の問題をおしつけて自分の問題に向きあおうともしていませんでした。また、早く母も治ってくれたらいいのに、早く早くと焦る私に「そんなに焦ったってしかたないよ」と断酒会の皆さんは諭してくれます。もし、真栄城先生にであっていなかったら、若草断酒会の皆さんに出会っていなかったら、私たちはまだお酒を飲んだ飲んでいないというくだらない言い合いをしていたと思います。

一時はこんな家族なくなったていいとも思いました。でも、父の仕事が激減しても私が何も苦労せずに大学を卒業できるのは、父や母、兄、姉のおかげです。毎日カレンダーに断酒何日目と書いている父の姿を思い浮かべると愛らしくも感じます。いろんな勉強会に参加し、断酒会での父の姿を電話で話してくれる母も、アルコール依存症という病気を理解しようとしています。私たち家族の回復はまだまだこれからですが、がんばっていきたいと思います

 

115日(金)は、韓国のソウルにあるカトリック大学を会場にして、およそ200名余の参加者を集めて開催されました。私もシンポジストの一人として出席してきましたので、本欄に印象を記しておきます。今回、日本からは14名、中国からは23名の参加者がありました。前日に韓国入りした日中の参加者は、カトリック病院を見学しました。病院の歴史や医療設備の説明を受けました。さすがに、世界中から一流の医師を集めて、相当高度な医療をおこなっている病院の特別病室は、VIPのために家族の寝室はもとより、会議室まで備えてあって、一日の部屋代がなんと日本円で30万円もするというのです。日本では、天皇陛下が入院された東大病院の部屋が10万円だったというはなしですから、その豪華さは推して測れるでしょう。そして、シンポジウムの会場となったカソリック大学は、キャンパスの中にホテルが併設されているだけでなく、講堂や会議室に備えられている視聴覚機器も最新式のものばかりで、彼国が医療や教育にかける予算は、わが国のそれをはるかに越えているように感じました。というのも、日本では「事業仕分け」なる言葉に象徴されるように、教育分野における予算も例外ではなく、年々、削減される一方なので、この国の将来が案じられます。

 さて、シンポジウムの総合テーマは「自殺問題とうつ病」について、日中韓の専門家がそれぞれの立場から講演した後、フロアーからの質疑を受けて討論が行われました。

 ここには、印象に残ったトピックを箇条的に紹介しておこうと思います。

 

1、201055日、韓国人の若者の死因トップは自殺であることが、韓国で行われた調査によって分った。韓国の1524歳の若者の死因で最も多かったのは「自殺」。次が「交通事故」で、「ガン」「溺死」が続いた。「自殺」の割合は10万人中135人。「交通事故」は92人、「ガン」は37人、「溺死」は13人だった。この年代の若者のうち、「1年以内に自殺を考えたことがある」と答えた割合は89%。激しい受験競争と就職難が2大原因とみられている。

 

2、「高齢者万引き 再犯防げ」(朝日新聞 823日夕刊1面トップより)

その記事によれば、日本では、警視庁 逮捕・送検20年前の10倍 になった、という。逮捕・書類送検された65歳以上の高齢者の人数は、以下の通りである。

 1989年:266人 全体の3%  約10年は横ばい。その後、次第に増加。

 2003年:10%を超えて、2007年には、20%を上回った。

 2009年:3110人 全体の21%を占めた。

逮捕・送検された高齢者204人にアンケート調査をおこなった結果、万引きする心理的背景として挙げた理由は、次のようであった。

   「孤独」→24% 「特に理由なし」→9% 「生きがいがない」→8

 そこで、警視庁は、初犯の高齢者に地域社会でのボランティアに参加してもらう取り組みを9月から開始したが、1年後をめどに効果を検証する、という。 孤立した高齢者にとって人とかかわる手段が万引きしかない場合がある、とみる専門家がいる。

 

3、日本や韓国では、自殺者の男女比は、男性が多いのに比べ、中国の農村では女性が多いという報告がなされた。自殺の方法は、農薬による服毒自殺が多いとのこと。そこで、中国政府は農薬販売を規制することにしたところ、自殺者がかなり減少したという。その報告を聞いたある韓国の大学教員(女性)が「中国の自殺者の数字は当てにならない。公表されている自殺率よりもっと高いと思う。おそらく、自殺率は、世界一だと思いますよ。」と閉会後に日本から出席したシンポジストの一人に語った言葉が印象に残った。