2011年7月アーカイブ

前期に開講している「子ども臨床学概論」の最終レポートの中からご本人の了解を得て、本欄に紹介することにします。レポートのテーマは、各自の自由に任せていますが、授業で取り上げられた内容から選ぶことになっています。

 

「生きる」ということについて

                                                      

佐藤みどり(文学部 一回生)

 

 今回の授業を聞いて、いくつかのポイントについて感想を書きたい。

 まず、「悩み」について。

人は大きくなるにつれて悩みがどんどん増えていく。どうして子どもの笑顔に癒されることが出来るのか、それはおそらく子どもが心の底から笑っているからだと思った。思い返せば、最近あんまり笑わなくなったのと引き換えに、些細なことで悩んでしまうことが多くなった。そのたびに自分は何が楽しくて生きているのだろうとまで考えてしまうほどに落ち込んでしまう。しかし、時間がたつにつれて、その悩みの「期限」が過ぎたとき、以前の苦しんでいた自分がばかに思えて、よくあんなくだらない事で悩んでいたなって笑えてくる。けれど次もまた同じような些細なことで悩んでしまう。その繰り返しだ。悩む自分が大嫌いだった。でも最近になっては、「悩む」というのは生きている特権じゃないかって思えてきた。悩んでいたことが解決されたときの解放感と達成感は言葉では表せない。逆に、悩みがあるからこそ、楽しい事を倍以上に感じることができるのでないかな、と思った。それが生きていることではないのかな。

 

 次に、「何のために生まれてきたのか」について。17歳のときから、私は自分の生まれた理由について考えるようになった。どうして17歳かと言うと、ずっと知らなかった先天性の病気がその年になって発病し、死にかけたからだ。医者から「死亡率100%」という過去の事例を見せられた母は、私の前では一滴の涙も流さなかった。おかげさまで、自分は生死を彷徨っている人間だなんて全然知らずに、「学校行かんで済むやん!ラッキー!」と、お気楽に入院生活を送っていた。

病気に対する一番の薬は、良い精神状態だと思う。多分その関係で、私は死亡率100%の事例から抜け出し、医者も驚くほどに回復できたのだと思う。もしその時に母が病状を教えてくれたら、自分はどうなっていたのか、今ではまったく想像がつかない。

退院してから、学校へ復学するまでの療養期間中、ずっと自分は何のために生まれたのかを考えていた。病気になって、家族に迷惑かけて、しかも死んだらすっきりするものの、しぶとく生き残ってしまって、一体私は何をするために生まれてきたのだろうか。退院したと言っても、先天性のものだから一生治らないし、薬を飲まないといけないし、定期的に検査も受けなければならない。それならいっそあの時死なせてくれたほうが苦しまなくて済むと、たびたび思った。しかし、全力で私を救ってくれたお医者さんたちや、半年も何の文句なしに看病してくれた親、そして受験期間にも関わらず毎日お見舞いにきてくれる友達に申し訳ないから、さすがに今では死んだらよかったなんて何があっても言わないが、当時の私は、生きている価値が分からなかった。

大学に入ってから、部活やサークル、バイトなど、人間関係の輪が一気に広くなり、いろんな人と出会うことができた。自分よりつらい境遇にいたけど強く生きている友人に感動させられたり、悩みなんて知らないのではないかと思わされるほど毎日へらへら笑って過ごしている友人に元気をもらったりして、私の生活は順調に進んでいる気がする。ふと気がつけば、私はいつも周りの人たちに元気をもらって生きている。私はこの先の人生を予想出来ないが、これからもよりたくさんの素敵な人たちに出会うだろうと思う。よく思えば私が病気に勝つことができ、新しく迎えることが出来たこの第二の人生、周りの人からもらったと言ってもいい。だから、今度は私がみんなを助ける番なのかなって思った。まだまだそんな立派ではないけれど、今までお世話になった人たちや、これから出会っていく人たちに少しでも元気を分けることができたらいいな。きっとそれが私の生きる意味だろうと今はそう思う。前のレポートでも言ったように、画家ならば絵を通して、作家ならば文章を通して、歌手ならば歌を通して...こころを伝えているように、私も私らしい形で頑張りたい。人はいつ死ぬか分からない。だから悔いのないように、出来ることからこつこつとやっていきたい。そうすれば、「いい人生だったな」って笑って死ぬことができると思う。

 

最後は、「妊婦さん」について。

 私は中学校の頃から、街で妊婦さんを見かけるたびに、幸せそうだなって思っていた。その時から、女性の一番美しいときは、妊娠しているときだと強く思った。笑っていなくても微笑んでいるように見えるし、お腹をやさしくさすってあげている男性がものすごく魅力的に見える。先月末、友人が出産をした。まだ写真しか見ていないが、とてもかわいかった。子どもを見つめている友人が、すでに立派な母親にしか見えなくて、とても羨ましかった。こんなにも、早く結婚したいな、と思ったことはなかった。母親になれば、また「いきがい」というのが変わってくるのだろうなと思った。

「みすゞの会」は、金子みすゞの精神、つまり「みんなちがって、みんないい」をモットーに事例検討会として活動しているグループです。大和内観研修所を会場に、年に二回程度開催している自主勉強会であり、これまでの参加者の職種は臨床心理士・教師・養護教諭・内観面接者・精神科医などです。援助職に従事しているメンバーは、守秘義務があるためクローズドな会でお互いのケースを持ち寄って検討し合っているのです。一泊二日の日程で、初めから終わりまで徹底しての事例検討会にその特徴があります。会の進行について言えば、全員が報告者としてレポートを作成しますが、それだけでなく、それぞれの報告に対して全員が一人残らず、コメントを述べあったあと、スパーバイザーのコメントがあります。ケースレポートの修練を積むだけでも貴重なことなのに、コメントの仕方についても身につけようというわけで。 

その「みすゞの会」が今日(716日)から明日(717日)にかけて、開催されます。

 今回はどのようなケースレポートが報告されるのか、スーパーバイザーとしても楽しみです。プライバシーがあるのでその内容を紹介することは出来ませんが、過去におこなわれた会で、メンバーの発言の中から印象に残った箇所を抜粋して記しておきましょう。

引きこもりのケースが提示されたとき、不登校で自宅に引きこもっている生徒に対してどのように対応すればよいのか、ということが話題になりました。全員が一通りコメントを述べたあと、教師から転じてフリースクールを主宰していたメンバーが、教師時代の体験を話してくれました。

「まだ教員になってまもない頃、担任したクラスの子で、一度も学校に来ないばかりか、親が非協力的だったケースがありました。学年主任と一緒に家庭訪問をしても、母親は玄関のドアさえも開けてくれないのです。その後も一人で家庭訪問をしましたが、せいぜい、トイレの窓ガラスに人影を見ただけで、声をかけても出てきません。どうしてよいか分からず、途方にくれていたとき、ひきこもりをテーマにした講演会があるというので参加しました。」

わらをもつかむ思いで出席したその講演会の講師は、牧師でした。講演が済んで、質問の時間になったそうです。そこで、某氏は例の生徒について状況を説明した後、対処の仕方を訊いたところ、講師の答えはきわめて単純明快でした。

「行って、ドアを開けるまで叩くことですね」

若い教師は素直でした。言われたとおりに日参して、その家のドアを叩いたのです。

しかし、初めの頃はいくらドアを叩いても誰も出てくる気配がありません。まるで三振ばかりを繰り返す打者の心境だったそうです。講演会で牧師の言葉を聞く前であれば、あきらめていたかもしれませんが、三十余年前の青年教師は、ドアが開くのを祈るような気持ちで家庭訪問をくり返して、ドアを叩き続けたそうです。すると、

「ある日突然に、なんとドアが開いて家の中に入れてくれたのです。生徒にも会えました。それがきっかけとなって、登校するまでになったのです。」

それを聞いたスーパーバイザー(臨床心理士)のコメントは以下のようでした。

「叩けよ!さらば開かれん、という聖句のとおりになったわけですね。牧師の助言もすごいけど、それを信じた教師はもっとすごいと思います。助言されたことを信じ、祈りながら、それをおこなうとき、道が開けるということですね。援助職に必要な資質があるとするならば、『信じる力』と『祈る心』かもしれませんね。」

 

 

 

森下 文

奈良女子大学大学院・人間文化研究科・人間行動科学専攻

 

先日、埼玉県の文教大学で第34回日本内観学会が開催され、私も参加させていただきました。その中で、鈴木秀子先生(元聖心女子大教授・国際コミュニオン学会名誉会長)が「内観を体験して」というタイトルで特別講演をされました。鈴木秀子先生の講演の内容は私自身の内観のテーマと重なる部分が多く、講演後に「先生とお話がしたい」と強く思いました。しかし、ご多忙な先生にご迷惑をかけるわけにもいきませんので、紙面で私の思いを書きたいとおもいます。

 「この度の震災のことを抜きにして、私は内観については語ることはできません。震災で亡くなれた方々、被災された方々のために祈りましょう。」と祈りを捧げ、講演が始まりました。

 先生は428日に仙台入りし、宮城、福島の被災地を回られたとのことです。ちょうど同じ時期に、私は大和内観研修所で集中内観をしていました。私が、内観することになった大きなきっかけは、震災で家族が被災したこと、自分が震災直後の被災地を訪れて、大きな衝撃を受けたことによります。

鈴木先生は、講演で「この震災で多くの方々がなくなられました。その方々は、津波に流されながら、死を迎えるその時まで、どのようなことを思われたのでしょうか。内観で自分の振り返りをすることは、死を目前にした人が、これまでの人生を振り返ることと通じるものがあると思います。人は死を目前にして、残される人々に自分の思いをメッセージとして伝えようとします。この震災で、どれだけ多くの人々が、どのような思いを残しながら亡くなられたことでしょうか。その思いを私たちは決して忘れてはならないのです。」と語られました。

 震災十日後に家族の様子を見るため、大量の食糧を持って私は仙台に帰りました。壊れた街の様子はテレビで見るのと同じでした。被害が大きかった割に、街ゆく人々の顔は比較的元気そうに見え、それなりに活気もあるように感じました。しかし私は、街を歩いていると涙がこみ上げて、抑えることができないのです。結局、数日後に大阪空港に帰り、雑然とした大阪市内に戻るまで、このような状態が続きました。鈴木先生の講演を聞いて、私は自分の涙の原因に気づくことができました。被災地の空気が以前のものとすっかり違ったものになっていたのです。仙台の街は妙に清々しく、騒がしいけれど何となく静かで、そして悲しい気配に満ちていたように感じられました。とても多くの方々が亡くなれたこの街には、それらの一人一人の想いが空気の中に漂っていたのかもかもしれません。その一人一人の想いと、亡くなられた方を思う家族の悲しさが、街全体を包んでいたのでしょう。

私は、内観中に吉本伊信先生のテープを聞きました。その中で、「自分はもうすぐ死ぬんや。そのような、ぎりぎりに追い詰められた気持ちで、ひたすら内観に集中してください。」という節がありました。今回の震災で多くの方が亡くなられました。生き残られた方も、九死に一生を得たという、ぎりぎりの状況で命が助かった方々が大勢です。命の瀬戸際で、どのようなことを思われたのでしょうか。おそらく、家族に対する感謝の想い、そして家族に対して祈りを抱いた瞬間があったとおもいます。このような限界状態で抱いた思いが、街の一人一人の雰囲気や表情を変え、不思議な空気となって私を包んでいたように感じます。私の心が、それらの無数の思念に満ちた空気に共振して、涙が止まらなくなったのかもしれません。不思議な静けさは、耳を澄ませば無数の声を秘めているようにも聞こえ、ますます悲しくなってしまうのでした。

 鈴木秀子先生は、各被災地や避難所を回られましたが、避難所にいる方々の心情に触れ、大変驚かれたそうです。地震と津波で悲惨な目にあって、体育館の避難所という過酷な生活状況の中におかれても、そこにいる人々は、誰一人不満を口にされないのです。ご飯が食べられ、寝るところもあり、皆と一緒にいられることに感謝しておられたそうです。お年寄りは「お世話になったことに対して恩返しをしなければ、自分は死ねない。」ともおっしゃっていたそうです。鈴木先生は、市長に対して「さすが東北の人々は違いますね。過酷な自然に昔から慣れているので、DNAの中にこのような辛抱強く、謙虚な姿勢が組み込まれているのでしょう。」とおっしゃったそうです。ところが、市長は「それは違います。被災したのが東北人だから、このような謙虚で、感謝に満ちているのではありません。未曾有の災害で、命の瀬戸際まで追い詰められたとき、人は自然の脅威に恐れおののき、謙虚になるのです」と、やや怒りを込めて答えられ、鈴木先生は言葉も無かったそうです。

大きな自然災害の前に、人はあまりにも小さく、無力な存在です。なすすべもなく立ち尽くすことしかできません。恨み言を言ってもどうなるものでもありません。人はこのようなギリギリの限界に立たされた時、これまでの自分を振り返り、すべてを支配できると思い込んでいた傲慢さに気づき、頭を垂れるのでしょう。やがて、悲惨な災害の事実も受け入れざるを得ないことに気づき、それを受け入れ、逞しく生きていくのでしょう。

「どうしてあの人が死んで自分が助かったのか。本当は、自分が死ぬべきだったのではないか。自分が生き残ったことに意味があるのだろうか。」これは、震災後、友人が避難所で絶えず自問し続けていたことです。彼女は、目の前で津波に流された家族や知人を思うと、混乱で頭がおかしくなると言っていました。しかし、いくら頭が混乱しても、答えの出ない自問をやめられず、自分が生き残ったことの意味や、このような悲惨な目に合わなければならない理由や、自分自身のこれまでの生き方をひたすら考え続けていたようです。広い体育館の避難所は、大勢の人がひしめく様に生活をしており、騒然としていました。彼女は段ボールで仕切りを作り、個人スペースとして場所を確保したその中に籠っていました。私には、彼女が段ボールの中で内観しているように見えました。避難所には、彼女のように段ボールのスペースに籠っている人が多く見受けられました。彼女に聞くと「今は何の気力わいてこない。こうやって段ボールの中にいて考えているのが一番安らぐし、落ち着く。」とのことでした。他の段ボールに籠っている人たちも、自分と同じような気持ちだろうとも言っていました。

このような生活を十日ほど続けて彼女なりに出した答えは、助かった命を一生懸命に生きるしかないと言うことと、こうやって自分が生きていることに対する感謝の気持ちだったそうです。「今まで、生活全般において傲慢だった。感謝の気持ちなんて持ってもいなかった。お金を払えば全てが手に入り、お金があればそれなりに幸せにもなれると思っていた。震災で、そんな思いは粉砕されてしまった。言葉は悪いかもしれないけど、神様が天罰を下したのかも知れない。傲慢になってはいないか、目を覚ませ!と地面を身震いさせたのかもしれない。でも、なんで、よりによって東北なんだろう。いくら考えても、納得なんて出来ない。納得できないけど、生きていくしかない。生き残った自分たちに出来ることは、死んだ人たちの分も生きていくことなんだ。今、自分が生き残った意味はわからないけど、本当に死ぬ時が来たらわかるのかもしれない。生き残ったことに感謝して、この命を土台にして再出発してゆくしかない。」彼女のこのような思いを聞いた時、彼女の逞しさに感動すると同時に、とても苦しく、後ろめたさを感じました。私は、実際に震災を体験したわけではありません。私にできることは観念的な同情や、物的な支援といった表面的なものにすぎません。被災地を訪れた私は、周りの変わり様や避難所の様子にショック受け、涙ぐんでばかりいましたし、断続的な余震におびえ、震えているばかりでした。避難所にいるだけで、役に立たない私が水も食料も消費してしまうことも、申し訳なく思いました。同じ東北人として、そこにいる人々と痛みを分かち合えないことがもどかしく、まったく役にも立たない自分の存在を、つくづく情けなく恥ずかしく思いました。

その後、私は集中内観に参加することを決意しました。内観中で屏風の中に入っていて、避難所の段ボールの仕切りの中にいた彼女の姿を思い出しました。内観で、震災について自分なりに振り返りました。そのせいか、内観三日目の朝に「大津波の夢」を見ました。その夢は「被災地を訪れた私が、震災の後片付けを手伝っているところに大津波が襲い、津波にのまれる寸前」というもので、迫りくる強大な波の恐ろしさに、驚いて目を覚ましてしまいました。所詮、夢に過ぎないことかもしれませんが、恐怖は実感として私の中に今でも残っています。私は、自分が東北人であるにも関わらず、亡くなられた方や被災された方々の苦しみを共有できていないことや、何の手助けもできていないことに対して常に後ろめたい気持ちを持っています。そのような思いが「大津波の夢」を見させたのかもしれません。この夢の持つ意味を考えながら、少しだけでも恐怖を感じられたことで、後ろめたさが軽くなった思いがしました。

集中内観中に、このような夢を見たことや、それ以外にも自分自身について多く気づきが得られたこともあって、「震災については気持ちの整理はついた。もう大丈夫、泣かない。」と、自分で無理やり思い込ませていたようなところがありました。しかし、鈴木先生の震災と内観についての講演を聞いて、涙がこみ上げ、胸が高鳴り、震災について気持ちの整理がついていないことに気づかされました。気持ちの整理がついたと、思い込むことで、震災について色々考えることの苦しさから、逃げていたにすぎなかったのです。これほどの震災被害を目の当たりにし、実際に家族や親類や知人が被災し、多くの知人を亡くしているのです。たった23カ月で気持ちの整理がつくはずもありません。やはり、私は亡くなった人や、今でも避難所暮らしの人々ことを忘れることはできません。テレビで報道される、被災地の話題からは目を離すことができません。避難所にいて段ボール内観をしていた友人や、そのほか多くの被災された方々も同じことでしょう。おそらく、生きている限り、割り切れなさや、やりきれない思い、そのほか震災をめぐる諸々の複雑な感情を抱え続けていくことになるのでしょう。

そんな思いを抱えて生きることは辛いことです。逃避して、忘れたふりをするのも当たり前です。実際、鈴木先生の講演を聞くまで、私自身が「もう大丈夫!」と平気なふりをしていました。しかし、先生の講演を聞き、このように感想まとめながら気づいたことは「私は忘れてはいけない存在なのかもしれない」ということです。震災後、あの街に漂っていた独特の空気に共振して涙が止まらなくなった私。亡くなられた方からの無言のメッセージを受け取っているように感じている私は、絶対にこの思いから逃げてはいけないのです。私にできることは、亡くなられた方々が最期の瞬間まで考えておられたことに思いを巡らせ、その人々の思いを生き、思いを伝えていくことなのでしょう。自分の人間としての器を考えると、果てしない重荷に感じられますが、唯一できる痛みの分かち合いであり、私の使命なのでしょう。幸いなことに、私は内観に出会うことができました。時には、疲れて立ち止まり、道に迷ってしまうこともあるでしょう。そんなときは、避難所で段ボールの中で内観していた友人を思い出しつ、自分も内観していきたいと思っています。そして、また自分の中に力を蓄え、歩み出していこうと思っています。

「家族」考

 

                          奈良女子大学教授 ()()(しろ)輝明

 

シリーズの最後は「家族」がテーマだ。核家族になって久しいと思っていたら、時代は単家族(孤族)の時代を迎えている。ひとり暮らしが増えたのである。少し前の新聞であるが、「高齢者の万引き 逮捕・送検 二十年前の十倍に」との見出しが目を引いた。

記事によると、逮捕・送検された二百四人の高齢者にアンケートを実施したところ、万引きする心理的理由として「孤独」を挙げた人が一番多く、二四%であったという。孤立した老人が人と関わる手段として万引きしかないというのは何とも切ない話である。マザーテレサ曰く、「現代の先進国における最大の病はらいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい,誰もかまってくれない,皆から見捨てられていると感じることだ」と。

しかし、「孤独」は高齢者だけの問題ではない。大人はもとより、子どもの世界にも影を落としている。いじめを受けた子どもが相談にきたとき、「シカト(無視)されることがいちばん辛い」と言った。人は人間関係の中で生きていくしかない。子どもには家族(親)こそ最も信頼できる人間関係なのだ。

その大切な「家族」を、東北大震災は奪ってしまった。拠り所となる人間関係を失った人々の心の回復は深刻である。