2012年1月アーカイブ

 「臨床心理学特論」の授業で、前回の本欄にも紹介した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩を使って、「利他心」について講じたところ、受講生から授業の感想がメールで送られてきた。大学院の学生の中には、社会人も交じっており、そのほとんどが対人援助職(教師・保健師など)に就いている人たちなので、授業内の質疑はもとよりであるが、授業後にも直接、研究室にやってきて貴重な意見を述べてくれる。

 ご本人の了解が得られたので、その一部を本欄に紹介する。

 

森下文

(M1)

 

今回も、じっくりと考えさせられる内容の授業だった。「利他心と自己満足」が話題になっていたが、少し自分なりに考えてみた。

自分の行動を振りかえってみると、いわゆる「利他心」が多い方かもしれない。しかし、「利他心」という言葉より、「放っておけずに、お節介を焼いている」といった感覚がぴったりくる。援助職についている以上、「誰かのために何かをする」という気持ちを継続できないと、仕事続けていくのは難しいかもしれない。私は、これまで自分の行為を「利他心」だとか、その結果として「自己満足」が得られるなどと、難しく考えたことがなかった。ただ、困っている人を見ると放っておけず、相談に乗り、お節介を焼いている。もちろん、感謝されることも多いのだが、当たり前のこととして感謝などされないことがほとんどだ。自分としては「うまくいって良かったなあ」くらいの気持ちで、すぐに次の相談に取り掛かる。むしろ、満足感より気持ちが凹むことの方が多い。例えば、「もう少し、上手なやり方があったのではないか?」とか、「本当にこれで良かったのだろうか?」とか、あとから悩むのだ。また、感謝されるどころか文句を言われることも多い。傍から見れば「あれほどの手助けをして、文句まで言われてアホみたいな仕事」なのだが、援助職とはそういう仕事なのだと思っている。しんどいしけれど、自分の性分に合っているから、まあいいわと思ってやってきた。そんな気持ちなので、これまで「利他心」と「自己満足」を結び付けて考えたことはなかった。もしかしたら、私がお節介を焼くことが好きな性分は、知らず知らずのうちに「自己満足」を覚えているからなのかもしれない。

授業で宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が紹介されていた。この詩は、賢治が結核で亡くなる2か月前に書かれたといわれ、死後に発見されている。あまり知られていないが、この詩には続きはあって、それは以下のとおりである。

    南無無邊行菩薩  南無上行菩薩  南無多宝如来  南無妙法蓮華経

     南無釈迦牟尼仏  南無上行菩薩  南無安立行菩薩

これは法華経である。

 日照りの夏は、涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず  そういうものに私はなりたい

と手帳の右のページに書いてあり、左のページに、このお経が書いてあった。一般に賢治は法華宗の信者といわれているが、全く反対の「真宗」の見方もできる。というのは、賢治の両親は熱心な浄土真宗の信者だったからだ。両親ともに念仏の人で、子どものころから賢治に蓮如上人の文章を読み聞かせ、「人間というのは、人のために何かをして上げるために生まれてきたんだ」と、口癖のように語っていたという。両親から、このように「人に何かをすることこそ最高の価値あること」という「布施」の心を植え付けられて育った賢治にとって、雨にもマケズの詩の内容は、「利他心」とか「自己満足」とか、そういう難しい定義づけされた言葉ではなく、ごく自然な感情なのかもしれない。「誰かの為に何かをする」ことは、なかなか難しいことでもあるが、実は当たり前の事なのかもしれない。自分が何かをすることで、誰かを少しだけでも幸せにできたら、それは素晴らしいことだろう。その行為に自己満足があろうがなかろうが、相手が幸せになった事実は事実として残るからだ。

 

「将来、臨床心理学を活かしたカウンセラーなどの対人援助職に就きたいのですが、カウンセラーになるための資質ってどういうものでしょうか?」

臨床心理学の授業を受講している学生が研究室にやってきてそう聞いてきた。

内観の創始者・吉本伊信師は、質問の内容が同じでも質問者に応じて答え方を変えていた。いわゆる「対機面接」である。

 そこで筆者は、「吉本先生だったら何と答えるだろうか」と生前の師の姿を思い浮かべながら、返答の内容を考えてみた。僧籍をもつ師のことである、おそらく以下のように答えるのではないだろうか。

 「内観面接者の資質を挙げればいろいろあると思いますが、まず何といっても"利他心"が備わっていることが一番でっしゃろうなぁ」

 では、その"利他心"とはいったいどのような心を言うのだろうか?

「自分の楽しみや欲望を優先するのを"利己心"と言うが、"利他心"は、それとは真逆で、自分のことを勘定に入れず、他人の幸せや利益を優先する考えであり、生き方です。」と説明してくれるだろう。

 天台宗の僧籍を持つ瀬戸内寂聴は、『利他心』について次のように説いている。

「天台宗では「忘己利他」という言葉があります。『忘れる己』と書いて、それは普通に読んだら『ぼうこ』だけれども、天台宗では『もうこ』と読むんですね。それに『利他』が付いている。日本天台宗の宗祖、伝教大師最澄の『山家学生式(さんけがくしょうしき)』という論文の中に『好事は他に与え、悪事は己に迎え、己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり』という教えがあります。自分のことは置いておいて、とにかく人のためになるようなことをしましょうっていうことです。」(『利他』・小学館)

文学好きだというその学生には、宮沢賢治の詩・「雨にも負けず」をよく味わってみるよう勧めておいた。本欄の読者のためにも、以下に掲載しておこう。

 

「雨ニモマケズ」

 

・宮沢賢治

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

 

 

 年を越してしまいましたが、昨年の1217日に東京で家族療法家として活躍する中村伸一先生(精神科医)を本学(奈良女子大学)にお迎えして、講演会とシンポジウムを開催しました。それに参加した学生の一人が若い感性で捉えた興味深いレポートを提出してくれましたので、本人の了解を得て、本欄に紹介しました。

 

講演・「ひきこもりとたてこもり」を聴いて

 

  妹尾桃子(人間科学科2回)

 

 

ちまたでは、「ヒッキー(ひきこもり)だから」だとか、「最近ひきこもってた」というように、気軽に「ひきこもり」という言葉を使っているように思う。高校の隣のクラスには「ヒッキー」というあだ名の男の子がいたほどだ。それらは本当の意味のひきこもりとはかけ離れており、何日か家から出なかったり、その日一日中家から出なかったことを表していることが多い。さて、このように気軽に「ひきこもり」という単語を私たちは日常的に口にする。けれども、私はあまりそういうとき「ひきこもっていた」とは言ったことはない。私はずっと、「いや、たてこもってた」と言ってきた。そういうと、よく「何それ!」と言われたものである。私は、自分が「ひきこもっている」というのには違和感をもっていた。私の場合、家からでないというより部屋から出ないだとか、誰とも話さないといった体だった。どうしても一人の空間を得ようとしていたから、これは「ひきこもり」というより自分の部屋にたてこもろうとしていると思ったので「たてこもり」と自分で呼んでいた。それが、今回の講演のポスターをみると、タイトルが「ひきこもりとたてこもり」であった。私は非常に驚き、これは聴きにいかなければならないと思い、参加させていただいたのである。

まず、たてこもりはいわば家庭内ひきこもりであるということである。私は家がマンションであるため、家庭内ひきこもりがしたくても絶対に不可能である。ゆえに、「たてこもり」ができるということにまず鍵のある自室があるのだな、と思い、また私のようなマンションにくらしていても「たてこもり」をしている人はいるのだろうかと思った。もしいるのだとしたら、どうやって「たてこもって」いるのだろうか。素朴というか単純すぎて恥ずかしいのだが、とても興味を引かれた。

 つぎに個人、家族、コミュニティーについて語られた図があった。その図の中のどの位置に自身(本人ではなく家族)がいるのかを自覚することが大切だと、中村先生はおっしゃっていた。自分がどの役回りなのかを自覚していないと、逆に悪循環をもたらすことがあるというお話だった。これは、真栄城先生がお話してくださった「イネイブラーズ(enablers)」の話にも似ていると思った。あれも、ある意味自分自身がその人の嗜癖問題を支えている役割に位置していることを自覚していないがゆえに問題を助長させる要因になってしまっているわけである。自分の立ち位置、役割を正しく把握するということは大切なことなのだと知った。

最近の若者というのはある種の軽薄さを持っているのかもしれない。「ひきこもり」という単語についても、気軽に使える単語へと変化させてしまう。それがまるで重大なものではなく気軽な、ありふれた物であるかのように言葉を扱うのである。私自身よく「死にたい」という。けれど、別に本当に死にたいわけではない。「死にたい」という言葉にも意味がいろいろとあるのだ。まず正規の意味での「死にたい」、恥ずかしいと同義の「死にたい」、失敗した、やってしまったと同義の「死にたい」など、ネガティブな意味を含んでいるのはそうだが、ずいぶんと軽い装いであるとは思う。これは、もしかしたら人間関係の希薄さにも起因しているのかもしれない。傷つきたくない、もしくは傷つけたくないという考えから、表面だけをなぞる様な付き合いが増えているというならば、それに伴って、もしくは先だって、コミュニケーションツールである言葉が軽薄さを帯びていったのかもしれない。そんな世界はとても疲れてしまう。自分の悩みや気持ちをすべてさらけ出すことはできない。つねに相手をうかがってどこまでなら許されるか考えなくてはいけない。あまり真面目な話をすると「ひかれてしまう」から。そうすると浮いてしまうのだ。皆浮きたくないから、真面目な話をしない。軽薄なふりをする。もしかしたら、そんな気づまりする世界に耐えられなくなった人が、もしくはそこで上手く適応していくすべを得られなかった人が「ひきこもって」しまうのかもしれない。そう考えると、やはり「ひきこもり」は誰が悪いのでもないと思った。あえて言うなら、社会が生み出してしまった病気なのではないだろうか。

 

 

年明け早々に表題のタイトルの本(鎌田東二著 PHP新書 2001)を読んでいるところです。全文で219頁の新書版だ。いま、188頁にきていますが、印象に残ることが書いてあるので、本欄に紹介しようと思います。章のタイトルには、「神仏習合論の再発見」と付されており、その中の二つ目の節が目に留まりました。「神は在るもの、仏は成るもの」と記されていたからです。以下に、その内容を抜粋しておきます。

 

「そもそも神と仏は原理的に全く異なるものであった。<中略>

神とは、存在するものの力や偉大さや働きを、驚きと畏敬の念を持って表すときの言葉である。つまり存在そのものの中に神威や神性や神格を見ているのである。それゆえ、神はそこに「在る」のであって、成るものでもまた信仰するものでもない。それは一つの存在論とも言うべき古代人の世界観である。そしてそのような存在論は、私たちの身体感覚や文化の中に今なお深層的に保持されていると思える。

 それに対して、仏教はきわめて人間的な営みである。仏陀とは、「悟った人」という意味である。宇宙の理法、存在の法則、人間世界の苦しみが何によって生起し、どのようにすればそれを解決することができるのか。そのような人間世界救済の方法を見いだし問題解決をはかった者が、「悟った人」としての仏陀であった。<中略>

 つまり悟りを得ることによって、人は仏陀に成ることができるのである。成仏という言葉があるように、仏には「成る」のであって、はじめから「在る」ものではない。

<中略>

 それゆえ本来、「神は在るもの、仏は成るもの」という違いがあった。神は存在世界の存在論である。仏とは人間世界の実践論であり、認識論である。

 その全く原理的に異なる神と仏が一つの神仏観として、日本文化の中で融合する。神の中に仏を見いだし、仏の中に神を見る。神もまたさらなる悟りを深め、仏もまた本来神としての神性や仏性を抱く。そのようなお互いの中に自己を見いだす。他者の中に自己を見いだし、自己の中に他者を見いだす視点である。<中略>

 神は来るもの、仏は往くもの

 「神は来るもの」とは、祭りが本来「待つ」という語源から来ているように、かなたから到来してくる何ものかを待ち受け、それにお供えするということが本来の神道の姿である。<中略>

 それに対して、仏とは仏になるという成仏、成道の実践である。仏に成るということは、この世の苦しみの海や川を渡って真理の世界つまり悟りの世界に往くことである。つまり世俗の世界から真理の世界へ渡って往くことである。此岸から彼岸へ渡っていくことだ。