2012年3月アーカイブ

 今年もまた、奈良県断酒連合会は記念大会を開催するにあたり、顧問の一人である筆者にも祝辞の寄稿依頼がありました。毎回、機関誌・「せいりゅう」には行政や政治家の方々からも祝辞が寄せられており、どうしても内容が重複してしまいがちです。それを避けようとすると、およそ祝辞らしくない内容になってしまうのですが、それを気にしても仕方がありません。今年は以下のような文章を認めました。

 

前回の「せいりゅう」第三九号にも述べたと記憶しているのですが、いったい、貴会が飽きもせず、毎年、繰り返し「記念大会」を開催する意義は何なのか、当地へ来たばかりの頃はよくわかりませんでした。毎年のことなので手順を覚えてしまえばたやすいことだというかもしれませんが、やはりこれだけの大会を開催するのは、煩わしいことも多々発生するでしょうし、準備にかかわった人には相当な労力だと思われるからです。

 私の中でその意義についてまだ十分わかっていなかった頃のことですが、とある断酒会主催の講演会に招かれて、次のような話をしたことがあります。

「アルコールやドラッグはもとより、ギャンブルやセックスだけでなく、たとえ仕事であってもそれに四六時中耽溺(たんでき)している人たちの中には、いまひとつ自分の人生に意義が感じられていない場合が多いようですね。」

 すると数日を待たず、ある男性の方から講演の感想を添えたお便りが届きました。

 「作家で依存症の中島らもさんが、著書の中に『大学の四年間にしたことといえば、泥酔することと、本を読むことと、ラリること、セックスすること、この四つだけだった』と書いていて、あまりにもぼくとそっくりなのでびっくりしたことがあります。それから彼の本を手当たり次第読んでみました。その中のひとつに"さかだち日記"という本があって、その中でらもさんが『廃人になる人と生き残る人の差について考えたんだけど、結局"役割"なんじゃないかと思うようになった。役割のある者は生き残って、ないものは死ぬ。淘汰だ。』と述べていたことがすごく印象に残っています。つまり、講演の中で先生が話された"依存症に陥った人の中に、人生の意義を感じていない場合が多い"というのは、らもさん流に言えば、"役割"を持っていない人のことだと理解してよいのでしょうね。」

 その便りを読んで、ナチスがアウシュヴィッツで行った"無意味な石運び"の話しを思い出した。

 「昔、ナチスが囚人に対して行った拷問に石を運ばせるという重労働があった。A地点からB地点まで石を運ばせるのであるが、B地点まで運んだところで、再びA地点に石を運ばせる。来る日も来る日も同じ仕事を繰り返させる。中には単に石を運ぶだけでは耐えられないと見て、ピラミッド状に積んだり、奇抜な形で積む人がいた。ところが、それをみつけた監視人は、それを許さず、すぐに壊すよう命じる。囚人はひたすら二カ所の地点をそれこそ無意味に往復するだけだった。

 この無意味で単純な作業を繰り返しているうちに、肉体より先に精神がやられてしまった。囚人たちの中から情緒が不安定になって、気が狂う者が続出した。」

 つまり人間は、何の目的も役割もなく、無意味なことを延々と続けることに耐えられないのです。同じ重労働でも、その石を運ぶことによって、何かの建造物が建つとか、堤防を作って人々の役に立つことが分かれば、どんなに辛く苦しいことであっても、耐えられるどころか、その重労働に喜びを覚え、生きがいさえ感じることができるのです。

さて、便りをくれた男性の方に刺激されて、私も中島らも氏の本『今夜、すべてのバーで』を読んでみました。貴会のメンバーはもとより、本誌を目にする断酒会の皆さんの参考になればと思いつつ、抜き出しておきます。

「酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、『飲まない』ことによって与えられなければならない。それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う。」

最後になりましたが、貴会のご発展と四〇周年記念大会のご盛会をお祈りいたします。

 

村井久晃

(大和内観研修所)

 

 小雨が降る土曜日の朝に、第13回日本サイコセラピー学会大会(木下利彦大会長)の一日目が始まった。学会のテーマは「精神療法と薬物療法の協働」との題で、会長講演、特別講演、教育講演のほかにセミナーや一般演題からシンポジウムまで盛りだくさんの二日間でした。

 大会は大阪国際会議場の最上階にて開催され、広い廊下の向こうに側には、ガラスを通して大阪の町並みが一望できる。そのような場所での学会参加は初めてで、筆者はまず会場の雰囲気に圧倒された。最初の一般演題でスクリーンに映し出されたパワーポイントの内容に圧倒されました。ミラーニューロンについての内容のほとんどが英語表記になっており、最初は「こんなところに来てもよかったのか、場違いじゃないか」と頭をよぎり、浅はかにも自分は内容をわかっているようなフリをしていたが、「そういうことはやめよう、自分はまだ心理臨床について学び始めた初心者なのだから、わからなくて当然だし、話している内容は日本語なのだから、何か一つでも今後の為になるものを持って帰ろう」と決心し、自然体で一つひとつの講演を聞くことにした。とはいっても、まるで国際学会のような、スクリーンに映し出された英語表記の専門用語には付いていくことは至難で、まるで難行に取り組んでいるようなものでした。それでも、二題目と三題目の「Narrative Exposure Therapyによる複雑性PTSDの治療(1)(2)」は興味深く拝聴できました。

 一般演題の発表は約15分間で、その後に質疑応答が5分間設けられていました。

そこではPTSD症状が有効とされるNarrative Exposure Therapy(曝露療法)(以下NET)を8年間の精神科通院・入院歴のある女性へ用い、その事例をもとに興味深い内容が考察されておりました。

 演者によれば、NETは精神科領域の複雑性PTSD患者にも有効であると考えられ、その内容が内観とのつながりを表すものでした。簡単に紹介すると以下のようです。

  自伝的記憶の混乱を整理したことによる、ナラティブ・行動面での変化も顕著であった。終了後も効果が持続した。さらに了解不能であった過去に関する意味の再構築が可能になることが示唆された」、とありました。

過去を曝露することで記憶を語るということはもちろんですが、自伝的記憶の混乱を整理するということは、過去の追体験を見直し認知を改めるという、内観と関連しているように思いました。

さらに演者によれば、②「(患者が)やらされているという気持ちでは続かない。」③「患者自身が主体的に課題に取り組むことが大切であり、治療者はそれについていくというつもりでやってきた」と話され、この②と③は特に内観者と面接者の関係と重なる部分だと思いました。

だが、NETと内観では過去の扱い方が異なるように思われました。トラウマにより現実と過去が入り混じっている状態の記憶が、恐怖や不安と再遭遇させてしまい、理解できなかった記憶を弁別し、現実は現実、過去は過去と分ける作業がNETである。内観では記憶の中の過去の事実に焦点を当て、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことの三つを見つめることで、今まで自分が知っていた、思い込んでいた過去の認知の大転換が起こるという点です。過去の事実という部分を見つめ直し発見することで、その対象者の裏にある心情や意図までも読み取り、それを再構築し新しい認知を築き上げる。まさにコインが裏返るように認知が変化するのです。

よって筆者の考察では、演者が「PTSD由来の激しい情動は処理されるが、その後に残る罪悪感、喪失感、恥などに対しては、認知再構成を目的とした継続面接が必要である。」ことを"課題"であることを聞いて、この部分を内観なら解消できるのではないだろうかと考えた次第です。もちろん演者は"課題"の対策として「認知再構成を目的とした継続面接が必要である。」とあげられており、PTSDのクライアントに内観面接をしたことがある訳ではないので、初心者の安易な考えかもしれません。

PTSDに関してもう一つの教育演題で、岸本年史先生による「PTSDに対するトラウマ焦点化認知行動療法」から子どもへのトラウマ焦点化認知行動療法の構成で気になるお話があった。こどもへのトラウマ焦点化認知行動療法の構成は「適応は318歳。心理教育、リラクセーション、トラウマの表現、語り、筆記、読み上げ、ダンス、描画などを行い、保護者の参加、こどもの治療意識を高める為に遊びを入れる。トラウマについて表現し、受け入れてもらえる体験をする。トラウマの記憶を安全に扱い自己効力感を高める。」ということすると教えていただきました。

この演題から学んだことは、トラウマ焦点化認知行動療法で大人とこどもでの療法が異なるように、内観でもこどもにフォーカスした内観というものがあるのではないかと頭をよぎった。大人でも途中で投げ出す人がおられるほど厳しい内観を、こどもがするにあたり何か取り入れる、または何か方法があるかもしれません。今後ぜひとも考えていきたい課題です。

もうひとつ興味をひかれた演題は、「集中内観中の「夢」の意義とその効果」についてでした。それを聞いて改めて夢が内観者の内観を深化させる要素の一つだということが理解できました。朝一番の面接で面接者に夢の解釈を語ることで健忘やめまいの症状が緩和し消失したという自らの体験を報告されていました。夢には内観を深化させるはたらきがあるとの知見は、心理学徒として大変興味深いものでした。

たしかに内観面接を陪席してきた経験からも内観中に夢を見る人がとても多く、その解釈により新しい再発見、「気付き」が起こる人は少なくないように思います。「夢」という観点から、内観者の内観が深まる為の要素として、さらなる研究が待たれるところです。

二日間に渡っての学会でしたが、分刻みのスケジュールで、演者の発表は駆け足で過ぎていった印象があります。もっとじっくり聞きたいという思いもありましたが、充実感を味わった二日間でもありました。

統合失調症に対するサイコセラピーは,流派を問わず決して易しいものではない。精神分析の創始者・フロイトは,精神分析的接近を統合失調症に対しておこなうことを,「荒波に漕ぎ出す小船」にたとえたという。それにもかかわらず,彼の弟子たちは勇敢にも統合失調症を相手にして,様々な技法を生み出している。(牛島定信 「人格の病理と精神療法―精神分析,森田療法そして精神医学」 金剛出版 2004

本来,内観は治療法ではないので,病気を治すことを目的にはしていない。

それでもフロイトの弟子たちがそうしたように,統合失調症はもとより,さまざまな精神疾患を対象に内観療法的接近が試みられている。(日本内観学会や日本医学会が発行している論文集や研究誌を参照すれば,そこに研究成果が発表されている)。治療を目的としないと言うならば,いったい内観は何を目的しているというのであろうか。内観の創始者・吉本伊信は,生前に「仮に内観で病気が治ったとしてもそれをことさら喧伝してはいけない。あくまでもそれは副産物だと思っていたほうがよい。」と忠告してくれたことがある。内観の目的について問われると「どんな逆境にさいなまれようとも,どんな地位,境遇,立場,状況にあろうとも,感謝報恩の気持ちで暮らせる,そういう心のすみかに大転換すること」だと述べている。

したがって,内観の立場から言えば,表題の「統合失調症の内観療法」の意味するものは,「内観療法によって統合失調症が治る」ということではなく,「たとえ統合失調症であっても,内観することによって,物の見方が変わり,心に平穏が訪れ,感謝報恩の気持ちで暮らせるようになる」ということに尽きよう。

 

 

いま表題のテーマで、4百字詰め原稿用紙にしておよそ150枚程度の原稿を書いているところです。原稿の締め切りは、まだ先の話ですが、4月になると大学の授業が始まるので、とても原稿を書く時間が取れそうもありません。そこで、できるだけ3月中に書き上げるつもりです。

9割ほど書きあげたのですが、今回は、書き出しの「はじめに」の部分を本欄に紹介することにします。

 

Ⅰ はじめに

 2011124日に京都文教大学にて開催された「日本の心理療法 思想編」と題するシンポジウム(秋田巌座長)において,筆者は表題のテーマで発言した。その後,その時のテープを起こした原稿が送られてきた。本稿はその原稿を参考にしつつ,大幅な加筆と修正を施したものである。

ところで,「心理療法の諸システム-多理論統合的分析-第6版」1)によれば,心理療法のシステムは,1959年には36あると報告されている。その後,1976年には130を数えたと思っていたら,1979年には200以上もあるとタイム誌に紹介されている。さらに,最近になってその数は400にまで増加しており,いまだに増え続けているようだ。そして,新しい心理療法の創始者は,対照群を置いた研究がなされないまま,8090%の治療率があると強調するため,学生や初心者はもとよりであるが,セラピストやクライエントまでをも混乱させている,というのである。

では,その混乱から脱するにはどうすればよいのか?

同書の著者・ジェームズ・O・プロチャカスカとジョン・C・ノークロスは「心理療法の破片化と混乱は,心理療法のシステムの比較による分析によって解決できると,われわれは確信している。」と自信たっぷりの書きだしである。筆者としては,興味津々で同書の扉を開いたところ,比較のために取り上げている心理療法は,欧米で生まれたものばかりであった。アジアはもとより,日本の心理療法は見当たらなかった。存在を知らないのか,あるいは知ってはいるが無視を決め込んだのか,真相は不明であるが,おそらく,メジャーな有名ブランドのそれに絞ったように思われる。

それではというわけでもあるまいが,先述したように日本の心理療法に焦点化したシンポジウムが開催され,日本で生まれた森田療法と生活療法と内観療法が取り上げられた。  

そこで,筆者はライフワークにしている内観療法について紹介した。

植物の成長に適度な養分が必要とされるように、人間の成長には、愛着(attachment)が欠かせない。愛着とは、乳幼児期の子どもと養育者との間に形成される情緒的結びつきのことだ。幼くして親と死別したり、両親の離婚によって親と離れ離れになったり、育児放棄や虐待を受けたり、あるいは親から過度な期待を押し付けられて育った子どもの場合、愛着の傷を被ることになる。これを愛着障害と呼んでいる。命名者は、イギリスの児童精神科医・ジョン・ボウルビィ博士だ。愛着対象(母親)を失った子どもは、食欲不振・好奇心の低下・無気力・情緒不安・抑うつ状態に陥ってしまう。安全を保障されない環境では、睡眠の障害を引き起こし、成長が止まり、未熟で華奢な子どもになる。大人になっても対象との関係に障害がみられ、その対象がアルコールの場合、アルコールとの適度な距離を保てなくなり、アルコール依存症に陥る。さしずめ酒瓶を抱えて離さない酒害者の姿は、母乳を求めてやまない乳児の姿に映る。「嗜癖問題」を抱える人たちの生い立ちに耳を傾けていると「愛着障害」による心の傷が見て取れることがある。

では、愛着障害に内観はどのように有効だというのだろうか。

愛着障害の修復に際して留意することは、安全感を保証することである。その点、内観の屏風は母親の胎内に似て、内観者を保護する機能を備えている。愛着不安の強い人には安心感を与えてくれる。また、面接者は同じ屋根の下で寝食をともにしており、内観者が不安を訴えたときには、すぐに対応できる。愛着障害者にとっては、かつて体験できなかった安全基地の居心地を味わえる。さらに、内観では子ども時代から大人の現在までを丁寧に振り返り、養育者(何らかの理由で両親が不在であれば、その代理者)から受けた愛着の数々を調べることが最初の課題になっているので、内観が進むに連れ、内観者は「被愛感」を味わう。ときに愛着障害の傷を修復する過程では、子どものころに味わえなかった愛着行動を示すことがある。いわゆる退行現象である。小中学生であれば、母親の添い寝を要求し、中には乳児期まで退行して乳房を求める子もいるが、内観では行動化をするのではなく、徹底した事実の想起に取り組む。つまり、愛着対象との関係を手掛かりに内的作業によって修復を図ろうとするのである。愛は心の滋養なのだ。