2012年8月アーカイブ

奈良女子大学では毎年「次世代支援の子ども学」という地域貢献事業を行っているが、今年は93日(月)の午後2時~5時まで、記念館を会場に映画観賞会と国内外で注目を集めている映画作家の河瀬直美氏を招いて、本学の学生との対談を企画しています。一般にも公開しており、参加費は無料です。学生たちにはその日に備えて河瀬作品を観てもらい、感想をレポートにして送ってもらった。 学生たちは本欄を通して、お互いの感想を読み合うことにしている。

 

松本愛弓

(子ども臨床学コース3回生)

 

萌の朱雀(もえのすざく)

最初に見たときは、家族関係がうまくつかめなかった。インターネットの公式サイトでストーリーを確認し、初めてその関係性を理解できた。それは、私のなかの「家族」のイメージが、「祖父母、父母、子ども」という限られたものからでしか構成されていなかったからだと思う。前期の演習でも考えてきたので、血縁関係だけが家族をつくるものではないことは分かっている。ただ今回『萌の朱雀』という映画を通して、家族の形はいろいろあるけれど、絶対に一人ではつくれないものなのだということを改めて感じた。ふたり以上の人が集まって初めて家族の形が見えてくる。そしてそこに家庭が生まれるのである。「ひとり家族」という言葉もあるけれど、やはりそれは本当の「家族」とは言えないと思った。また、家族の離散についても考えさせられた。長い時間を共に過ごしてきて、全体として調和していた雰囲気が、たった一人の人が欠けるだけで安定を失ってしまう。そしてそれは他の誰かではその穴を完全に埋めることはできない。それだけ、家族にとっては一人一人の存在が大きいのだ。この映画では、最後は家族が離れ離れになってしまうが、一番印象的だったのは、母親が娘に、自分は実家に帰るけど、あなたはどうする?というようなことを聞いたシーンである。自分が実家に帰るから一緒に帰ろう、ではなく、娘がどうしたいかを優先して、自分自身で決めさせるという点に、この家族の在り方が見えたような気がした。たとえ家族であっても、個として自分の人生を歩んでいく姿勢は見失ってはいけない。物理的にはばらばらになってしまったけれど、ひとつの家族の形は変わらずそこに存在し続けるものなのではないかなと思った。

 

 

 

殯の森(もがりのもり)

 この映画からは、「本気」「必死さ」ということについて考えさせられた。私はこれまでに何かに対して「本気」になったことがあまりない。もちろん一生懸命がんばることはあるけれども、限界まで必死になった記憶はほとんどない。森のなかで、真千子さんがしげきさんに対して「行かんといて!」と叫んで泣き崩れたとき、私は怖くなった。その痛烈な訴えに、怖気づいてしまった。「映画」ではなく、現実に目の前で起きている出来事のように感じた。それまで真千子さんの声がしげきさんに届くことはほとんどなかったが、この真千子さんの叫びはしげきさんの心にしっかりと届いた。そしてこのとき、真千子さんの生命力がとても強く感じられた。世間体も建前もなにもない、すべてをさらけ出して泣き叫んだ後の真千子さんの表情も忘れられない。私も赤ちゃんだったころは、全力で笑って泣いて、生きているよ、ということを必死で家族にアピールしていたんだと思う。私だけでなく、みんなもきっとそうなのだろう。大きくなるにつれて、綺麗に、強く、たくましく生きることが求められるようになり、生命の輝きのようなものを覆ってしまいがちになってしまうけれど、必死に生きようとしていた頃に漲っていた命のエネルギーも失ってしまいたくないと思った。

友が逝った。小中高の同期生だ。

「いきなりですが、訃報です。Mが今日(819日)亡くなりました。同級生で連絡を取り合っています。」

同級生のJさんがメールで知らせてくれた書き出しの文面である。

前後して、同級生のS君からも、短くて事実だけを知らせるメールが入った。

「本日午前Mが亡くなった。ガンだった。あんまり痛みに苦しまなかったことが救いだった。本日通夜。」

Jさんのメールは、もう少しあって、

1か月ぐらい前に、病院にお見舞いに行ったのですが、自力では歩けないとは言ってはいたものの、とても元気でいろんな話をしました。帰りに駐車場で奥さんにパッタリあって、"あと3か月と言われたけどそれ以上に生きてむしろ食欲もある。"と言っていました。

"奇跡が起こるかも。"と望みを託しながら帰りました。」と続いている。

 ふたりのメールを読んだ後、在りし日のMの姿が浮かんだ。幸い、彼のことは妻も知っているので、夫婦で彼と家族のことを話題にした。夫婦で通夜と葬儀を兼ねた喪の営み(mourning work)をしたというわけである。そこで気がついたことなのだが、彼との思い出を辿る作業は、内観そのものだ、ということである。人が人を偲ぶとき、それは自然に内観へとつながりやすいことを改めて痛感。おそらく、メールをくれたふたりの同級生も同じ心境になったのかもしれない。そして、我が身にも死が迫っているように感じたのではないだろうか。なぜなら、死は誰しも避けることのできない、自然の摂理なのだから。

 友の冥福を祈りつつ、来る日の自分自身の死について考えているところだ。

合 掌

2012820

平成24年度地域貢献事業「次世代自立支援の子ども学」

(奈良女子大学)

子どもフォーラム(全二回)

〈家族〉であること―模索と選択のストーリー

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夏休みに入ってから内観面接の合間に、依頼された原稿に取り組んでいます。締め切りが迫っていますが、遅々として進まず、文献の狩猟もままならず、青息吐息の日々を過ごしています。

今回は、要約に示したような内容を書いてみる予定ですが、果たしてどんな内容になるか書いてみないとわかりません。最近、外国の読者がいることが分かりましたので、英文も合わせて掲載しておきます。

 

【要約】

 内観では幼少時から現在に至る自分を振り返り、それを面接で話していくが、繰り返される「はなし」に耳を傾けていると、そこにストーリー(story)があることに気付かされる。ストーリーには筋(plot)がある。内観では事実を見つめることを大切にするが、筋とは事実と事実をつなぐものである。「話にならない」と言うとき、それはその人の話には筋がないということを意味している。「語る」という場合は、たとえば、「昔を語る」と言うように、そこには筋があるのがふつうである。カウンセリングの場面で心理療法家はクライアントの話を「語り」として聴いている場合が多い(河合隼雄・1993)。内観面接を担当していると内観においても、面接者は内観者の「語り」を聴いていることが少なくない。本稿では、内観を「語り(narrative)」の観点から捉えて考察を試みることにした。

                               【Abstract】

Naikan requires looking back on your life from childhood to now and speaking about it at the interview. I often find that everyone has their own "story" when I, as a Naikan interviewer, listen to their speaking. A story has a plot. A plot links one fact with another. Looking at facts is of importance at Naikan. When one says, "It is not worth speaking about," it means that his/her story has no plot. "Narrating" usually involves a plot as we can see in the expression, for instance, "narrate the old days." In many cases, psychotherapists regard the stories of their clients as "narrative" at counseling. (Kawai Hayao 1993) Similarly, it is not uncommon that Naikan interviewers listen to their clients' "narrative" in an interview. This paper deals with Naikan from the viewpoint of "narrative."

この度、第24回内観療法ワークショップ京都大会(日本内観学会主催)を平成24年10月27日、28日の2日間、京都市北山のアピカルイン京都で開催いたします。

 第24回内観療法ワークショップ京都大会では総合テーマに「サイコセラピーに果たす内観の役割について」を掲げました。精神科医の井原彰一氏(聖マルチン病院前院長)、堀井茂男氏(慈圭病院院長・精神科医)、臨床心理士の溝部宏二氏(追手門学院大学准教授)のご講演により内観療法の理論を学んでいただきながら、両日を通して内観実習を充実させるよう工夫いたしました。内観療法の理論と実践を学ぶ又とない機会であると自負しております。皆様のご参加をお待ちしております。

実行委員長  真栄城輝明(奈良女子大学教授)

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