2013年1月アーカイブ

卒業生のKさんが「奈良まで来たので寄りたい」と言って訪ねてきてくれた。短い時間ではあったが、学生時代の思い出や卒業後のことをいろいろと話してくれた中で、話題はニュージーランド地震で友人を亡くして涙が止まらなくなったこと、何もする気も起らず、授業も休みがちで、とても卒業論文どころではなかった彼女が意を決し、集中内観を体験したことに及んだ。内観後、自分の涙と向き合うことにした彼女は、亡くした友人の墓参りをするため、遠い友人宅を訪ねたところ、友人のご両親から「娘が帰ってきたようだ」と歓待され、夕食をごちそうになり、一泊して帰ってきたというのである。卒論のテーマも「涙の心理学」に決めて、内観中に涙を流した人たちの調査研究に取り組んだのである。

彼女によれば、集中内観を体験した内観研修所は自分を変えた原点だという。だから、奈良へ出てきたときは、これからも立ち寄りたいというのである。以下は大学の授業で後輩たちに紹介してもらってもよいというので、彼女自身がメールで送ってくれた文章であるが、当日、彼女が話した内容からほんの若干を補足した

 

あのタイミングで内観を受けて良かったと思ったのは、「心と身体の一致」というのが一番やはりしっくりきます。「心身が結合し不適合から脱する」という感じですかね。

ニュージーランドの地震が起こる以前は、どちらかというと受け身で周囲の目や印象を気にして生きてきました。自分の心は無視して、やりたくないことをやったり笑いたくないときに笑ったり。地震が起こって、悲しみの感情が最前面に出て、何も手に付かなくなりました。感情をコントロールできずに、電車の中でも人目を気にせず泣いていました。内観を受けて、心を無視するのでもなく、心に押しつぶされるのでもない方法を知ったような感じです。

エピソード的に行動を思い出しながらも、感情も追体験するような。上手く言えないのですが、そういう点で、心と身体が一致して、日常生活も少しずつ変わったのかなと感じます。バランスが取れるようになって、楽になりました。学生の頃は授業に出るのもおっくうで、遅刻が多く先生方にも迷惑ばかりかけていました。いまは仕事が楽しくて、欠勤はもちろん、遅刻したこともありません。先日も家族(父親)とけんかをしましたが、すぐに仲直りしました。自分の気持ちを正直に出せるようになったことが大きいと思います。将来に対しても全く不安はありませんし、いまは毎日が楽しくて仕方ありません。

 

しばしば「内観のルーツは仏教である」との言い方をする人がいますが,周知のように仏教は外来のインドから伝わってきたものであります。日本独自の宗教と言えば,古神道があります。しかしここで誤解してほしくないことは,古神道と国家神道とは似て非なるものです。戦前の日本軍の大本営に利用された国家神道は,一神教の影響を受けているため独善的であり,排他的な傾向がありますが,古神道は多神教なのです。一神教では,唯一絶対神の他には神を認めないのですが,多神教では複数の神を認めるばかりか,八百万の神を認めています。人間だけでなく、動物や草花はもとより、無生物に至るまで神が宿るとされています。もとより仏教や儒教も多神教ですが、世界の宗教は一神教のほうが多いといわれています。

 ところで、古神道では、"穢れ"を嫌い、禊祓いを行います。

「日本人にあって中国人にないもの,それは『穢れ』という考え方です。日本人というのは,伝統的に『穢れ』を嫌う国民です。」(井沢元彦 2006

井沢氏によれば「汚れ」は目に見えるが,「穢れ」は実体としては存在しないので目には見えないのだといいます。かつて臨床心理学者の河合隼雄氏は講演の中で援助交際をしている女の子に「援助交際をして何が悪いですか?」と問われ,「たましいが傷つくから悪いのだ」と答えたらしいが,まさに「たましい」は目には見えません。そこで河合氏の言葉を神道の視点から言い替えてみますと「援助交際によってたましいが穢れるから悪いのです。」ということになるのではないでしょうか。と言うのも,内観者の中には「これまで誰にも話せなかった嘘と盗みや迷惑をかけたことを調べてみると,それを面接者に話したら不思議に心がすっきりしました。」と語る人が少なくないからです。そのとき,内観者は,内観によって目には見えない穢れが祓われたと言ってもよいのではないでしょうか。内観は目に見えないこころやたましいの穢れを祓い落すことができるのです。

 

内観療法の場合

真栄城輝明

(奈良女子大学)

 

Ⅰ,はじめに

今回、与えられたテーマを前にして、サイコセラピー(精神療法・心理療法)を生業にする者は、いったいどのような縁でそれぞれの「理論と技法」に出合い、それをライフワークにするようになるのだろうか、という思念が浮かんだ。そこで、自分自身のことを振り返ってみた。たしかに「理論と技法」を学ぶことも大切であるが、それよりも「人」との出会いの方が大きいように思われた。筆者の場合、内観との関連で真っ先に挙げたい「人」との出会いは、内観の創始者・吉本伊信とキヌ子夫人である。集中内観体験後に、週末は、当時住んでいた名古屋から奈良の大和郡山市まで週参して、吉本夫妻が内観者のお世話をする姿を見せてもらった日々の体験は貴重であった。そこには決して書物からは学ぶことのできない「理論と技法」を越える人間観・世界観といった「思想」に触れる思いがしたからである。

ところで、ここに人の生い立ちと思想に関する好例がある。〝アイデンティティー〟という概念で知られる精神分析学者のエリック・エリクソンが他界したのは、1995513日のことであるが、翌日の514日の天声人語には、〝アイデンティティー〟という概念が彼の生い立ちと深く関連していると述べられていて興味深く思われた。

 一部を引用して示すと、以下のようである。

「ドイツ生まれだが、デンマーク人の両親は彼の誕生前に離婚していた。幼児に母親はユダヤ人の医師と結婚する。成人後、エリクソン氏は米国に移住、新しい環境で生活を始めた。社会的・思想的背景には、多分、たえず自分が何者なのかを考え続ける体験があったのに違いない」と。

このように、思想がその人の生い立ちと深く関わっているとすれば、内観を理解するためには、創始者の生い立ちに注目したくなる。その際に、時代精神と切り離しては理解が深まらないように思われるので、吉本伊信の生い立ちについて述べる前に、氏が文字通りこの世に誕生した大正時代と宿善開発(転迷開悟)[1]して生まれ変わった昭和初期を振り返ってみる必要があろう。

 



[1]宿善」とは、宿世に行った善業の意味を指す。わが身に与えられた永い過去からの善根が花開いて、よき師よき友を持つ身になること。(迷いを転じて悟りを開くこと)。

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