2013年3月アーカイブ

未曽有の東日本大震災から2年が経つというのに、いまだ仮設住宅での生活を余儀なくされている被災者は少なくない。住宅の問題はもとよりであるが、復興支援の一つとして、被災者の心のケアも喫緊の課題だと思われる。というのは、マスコミは報じていないかもしれないが、現地に赴いてみたところ、予想をはるかに超える自死者が続出していると聞いたからである。

 赴いた現地というのは、宮城県の南三陸町の仮設住宅である。去る318日のことであるが、その前日(17日)は、鳴子温泉郷の中央に位置する東鳴子温泉に宿をとった。宿の名は、「勘七湯」である。なぜ「勘七湯」に宿をとったかというと、震災被災者を支援してきたという高橋聖也氏が経営する湯治温泉旅館だからである。氏との縁を取り持ってくれたのは私のゼミ生のMさんであるが、氏とは幼馴染だという。夕食をご一緒しながら氏自身が取り組んでこられたという被災者支援の様子を聞かせてもらった。その縁もあって、我々はすぐに打ち解けることができた。そして、とても初対面では話せないことについても話題は展開していった。私にすれば普段は寝入っている時間なのに、話は尽きず、深夜近くまで及んだ。氏はこの町の語り部よろしく、味わいのある語り口で、私は氏の語りに引き込まれてほとんど聞き役に徹していた。

氏から聞いた話によれば、この土地は、昔から「湯治」の習慣があって、沿岸部の漁師などは、冬になると体の養生のために布団持参で自炊をしながら温泉宿に湯治にきていたという。今回の震災の被災者はほとんどが沿岸部の人たちである。家を失った人たちを温泉宿が引き受けた。湯治の習慣をもつこの土地ならではの自然な支援のように思われた。大手のホテルの中には、いろいろと条件を付けたり、被災者を引き受けるのに消極的なところもあったが、「勘七湯」の主は、積極的に被災者を引き受けた。被災者の中には、「勘七湯」の温かいもてなしを人づてに聞いて、別のホテルから逃げ出してきた人もいたようだ。幼馴染のMさんに「セイヤクン」と呼ばれる高橋氏の人柄は、会うだけで人情味があふれ出してきて、まさに「妙好人」そのものに感じられた。氏は大学から地元を離れているが、卒業後はすぐには実家に戻らず、京都の老舗のホテルで修業を積んだのちに7代目として家業の旅館を継いだようだ。

今や町を支える中心的な役割を担い、PTA会長をはじめ商工会の役員など十指に余る肩書をこなして多忙な日々を送っていたようであるが、2年前の大震災後は、それに被災者支援の仕事が加わったというのである。

ところで、話が佳境を超えて、そろそろお開きにしようかと思ったとき、氏の口からかなり重い言葉がさらりと発せられた。

「自分自身に言い聞かせていることですが、どんなことがあっても自分で自分の命を絶つことだけはしたくないです」と。

友人や知人が次々と命を絶っていった話のあとに出てきた言葉である。口調は穏やかであったが、それは氏が心の内にずっと抱えてきた想いであり、自分に言い聞かせてきた言葉に違いないと思った。その重い言葉に接して、私としては被災者はもとよりであるが、支援者の心のケアもまた必要なことだと思った。

 

参考までに「勘七湯」のHPを記しておきます。

http://www.hds-net.com/kansiti/

 

今回も前号の続きです。著者の森下さんは現役の教師(いまは生徒相談を担当する専任のカウンセラーとして勤務)ですが、本日の322日に奈良女子大学の修士課程を修了して、この4月からは博士課程に進学することになっています。内観に興味を持つ進取気鋭の内観研究者としての道を歩みだしたばかりですが、先週の316日には東邦大学医学部で開催された第14回日本サイコセラピー学会大会で<大学生の「内観ワーク」と「集中内観」の比較検討 ―「受容感・拒絶感」「内的作業モデル」の変化―>という演題で研究発表を行いました。昨年の研究発表は認められて唯一の原著論文として採択されています。

第3の分岐点は35歳の時である。その当時、私は学校で生活指導担当していた。生活指導の仕事を通じて一人の生徒と出会った。彼女は中2に入ってから生活態度が乱れだし、様々な非行を繰り返した挙句、警察に補導されていた。勤務校が私学ということもあり、このような場合は、生徒の生活環境をかえる意味で転学勧告が一般的な学校方針だった。両親から「親子三人で内観にいくことにしました。転学はしばらく保留にしてもらえないでしょうか・・・」と頼まれた。これが私と「内観」との最初の出会いであった。本来なら、たとえ親御さんに涙ながらに頼まれても、職員会議での決定内容である転学を一時保留にすることはできない。しかし、なぜか一週間くらいなら保留にしてもいいではないか、他の先生方には何とでも弁解できると考え、転学の一時保留を承諾したのだ。その後、親子3人で集中内観に参加し、しばらくして彼女は劇的な変貌を遂げて学校に戻ってきた。たった一週間で、彼女の表情や雰囲気が全く変わっていた。人を威嚇するような言動が消え、温和な表情になっていた。生活態度も変わり大きく変わり、これまでの数々の非行がまるで嘘のようであった。彼女の変貌ぶりを目の当たりにした教員は、驚愕するばかりであった。「内観」というものの効果なのかと不思議に思った私は、彼女に「内観って、一体何なの?」と尋ねた。彼女からは「ずっと座って、ずっと考える」と中2らしい答えが返ってきた。その説明では「内観」が何のかさっぱりわからなかったが、とにかく凄い効果があるという印象は残った。それ以来「内観」という言葉が私の中に生きていたように思う。彼女の学校での穏やかな様子から、いつの間にか教員間での転校の話題も消え、生活指導の対象ではなくなっていった。その後何事もなく中学を終え、高校、大学と順調に進学し、今は2児の母親となっている。もしあの時、私が何気なく転学保留を承諾していなかったら、私は「内観」の素晴らしさに出会うことはなかったはずである。<本文はまだまだ続きますが、本欄での紹介はここまでとなります。>

「教育と内観」(仮題)という著書の編集を担当することになっており、私のもとには執筆者から着々と原稿が届いています。今回はその中から著者の了解を得て、一部を紹介します。

 

森下 文

私が「内観」と本格的に出会ってもうすぐ2年になる。しかし、ここに至るまで長い年月を要し、大きな回り道をしてきたようにも感じる。長く、遠い道をはるばる歩み、やっと辿りつくべき場所に着くことができてほっとしている。改めて自分の歩んできた半世紀を振りかえると、数々の人生の分岐点があったように思う。それぞれの分岐点で、今こうして「内観」に関わることが運命づけられていたかのような選択をしていることに気づかされる。自分で進路を選択した気持ちになっているが、よくよく考えてみると何か自分の意志を超えた大きな力によって導かれているようにも感じられ、不思議なことである。

最初の分岐点は17歳の時に、修学旅行で奈良を訪れた時であろう。修学旅行の行先は、北海道と京都・奈良からの選択であった。私は後者を選択した。東北の山奥で高校生活を送っていた私であったが、観光バスから眺める奈良の景色は妙に懐かしく感じられた。神社仏閣より、何気ない景色や街の雰囲気を一生懸命眺めていた記憶がある。その後、自宅に戻って「奈良の大学にはいりたい」と「奈良で生活したい」と散々言い、親や担任を困らせていた。当時の東北の高校生にとって関西への大学進学することは、外国に行くような途方もない話であった。親や担任から散々反対され、さらには金銭的な問題まで考えると夢のような無理な話であり、あきらめるしかなかった。

2の分岐点は20歳の時である。親や担任の勧めで受験した近場の大学がことごとく不合格となり、2年間も浪人生活を送ることになった。学力相応の受験だったので、なぜこんなにも合格できないのか納得できなかった。大学からも拒絶されているようだった。田舎での女子の2浪は相当外聞が悪い。私も両親もかなり焦りだし、近所に住む運命鑑定のお爺さんに運勢を見てもらった。「あなたは西に行くべき人です。関西方面、特に奈良に行きなさい。」と言われた。受験する方角が、私には合っていないとのことだった。その一言で親の気持ちも動き、渋々ではあったが奈良の大学受験を許してもらった。受験は不思議なほどうまくいった。数学も英語もどこかで解いたことのある問題で、模範解答が頭に浮かんできた。こんなこともあるのかと驚きつつも、合格を確信し、予想通り合格した。これまでの連続の不合格はいったい何だったのかと拍子抜けしてしまった。もし、すんなり地元の大学に合格していたら、私は奈良に来ることはなかった。奈良の大学にたどり着くのに2年間も余分に費やしたが、奈良は私の来るべき場所だったのだろう。奈良での大学生活は楽しく充実したものであった。田舎からは就職・結婚は地元に戻ってくるようにと、しつこく言われていたが、私は奈良を離れるつもりはなかった。就職は京都の学校に決まり奈良から通勤した。結婚後、一時奈良から離れたが、その地はしっくり来なかった。夫を説得し奈良に住居を構えた。

                             <次号へ続く>

 

 内観後に内観者の方々よりお便りをいただくこと、しばしばですが、3月は大学や高校など入学試験の結果を知らせてきたり、卒業式の様子を知らせてくる方が少なくありません。

 今回の本欄には、以前に内観を体験された教師からのメールが届きましたので、紹介します。ご本人の希望で実名は伏せて、イニシャル(Y,S)で登場いただくことにしました。

 

今日は卒業式でした。私が現在の学校に就職して初めて教えた生徒たちが卒業していきました。

内観を経験してから、私は毎日を幸せに暮らしていますが、彼らを教えていた頃の私の心はどうしようもない迷いと苦しみと妬みなどで一杯で、彼らにも
自分勝手で理不尽な態度で接していたと思います。式の後の茶話会で、卒業生がやってきて色々と話している中でこう言われました。
 「先生変わったって色々なところから聞くわ。あのころ先生さ、何ていうか、マジ心の中の禍々しいものが出てたよね。今は何?100面相くらいが20面相くらいになったの?」
 「は~?それはさ、あなたの禍々しいものに私が反応しただけでしょう?
でもさ、私あの頃は本当に子供だったと思うわ。心も狭かったし。あなたの学年には本当に私の見苦しいところを一杯見せたと思うよ。今はね、心が太平洋並みだけどね~。」
などと冗談も交えて返事をしましたが、接点がなくなって2年以上たっても
一緒に写真を撮ろうと寄ってきてくれる生徒達に対し、あんな自分を受け入れてくれたことに再度、申し訳ない気持ちと感謝で一杯になりました。また少しでも自分を良くしていきたいと、そうあらためて強く思いました。
 駄文、失礼いたしました。 YS

 今年も子ども臨床学コース(通称、こりん)の4回生を送る会(追いコン)が行われました。3回生が中心になって企画した会に参加してきましたが、送られる卒業生からの依頼でサンシンを持参しての参加になりました。理由は、作詞をしたのが4回生らしく、これをコース歌として後輩にも唄い続けてほしいので、当日は皆で唄おうと計画しているからだというのです。

なぜ、サンシンによる伴奏かというと、沖縄民謡の「島人の宝」というビギンの曲を替え歌にして詩を作り「こりん人ぬ宝」と命名したからだというのです。

当日は1回生から4回生までの全員で声を合わせて歌ったのですが、当日配られたペーパーの歌詞は、これまで歩んできた自分たちの姿を見事に表現していて、4回生は苦笑しながら歌っていたのが印象的でした。

 

こりん人の宝

 

僕が選んだ こりんの道を

僕はどれくらい知ってるんだろう

「走りながら考える」

はじめは何にも分からない

でも誰より誰よりも知っている

めあてをたてて、ふりかえりして

子どもと歩んできたこの道を

教科書に書いてある

ことだけじゃわからない(イヤサッサッ)

大切なものがきっと

ここにあるはずさ(イヤサッサッ)

それがこりん人ぬ宝(イヤサッサッ)

 

僕が出会った こりんの仲間を

僕はどれくらい知ってるんだろう

先生との絡みもこりん部屋の鍵も

どうしたらいいのか分からない

でも誰より誰よりも知っている

コンパで飲んでご苦労さんと

少しずつうちとけるこの仲間を

僕が大好きなこりんの日々を

僕はどれくらい知ってるんだろう

プロ演1)・若葉研2)も卒業論文も

何をしたいのか分からない

でも誰より誰よりも知っている

研究熱心遊びも熱心

きらきら輝くこの日々を

いつの日かこのこりんを離れてくその日まで(イヤサツサツ)

大切なものをもっと深く知っていたい(イヤサッサツ)

それがこりん人ぬ宝

それがこりん人ぬ宝

それがこりん人ぬ宝(イヤサッサッ)

型にははまらない

ユニークな仲間たち(イヤサッサッ)

大切なものがきっと

ここにあるはずさ(イヤサッサッ)

それがこりん人ぬ宝

 

1)3回生になるとプロジェクト演習という時間があって、学生同士がグループを作ってその年に掲げられたテーマに沿って調査研究した結果を発表することになっているが、これはプレ卒論とも呼ばれているくらい学生にとっては相当なエネルギーを注いでいる。

2)卒論の中間発表会のことで、4回生にとってはそこをクリアーしていけば、卒論をうまくまとめていけると言われているが、そこでつまずくと後が大変である。