「狼と羊飼い」にみる「いじめ問題」に寄せられたコメント

| コメント(0) | トラックバック(0)

前々回の本欄に表題に関する学生のレポートを掲載しましたが、元大学教授と名乗る方から貴重なコメントが寄せられました。多くの示唆を含んだご意見なので、学生たちはもとよりですが、本欄の読者にも参考になると思い、私信の中から抜粋して紹介することにしました。

 

さすが奈良女子大学の学生さんだけあって、従来の表面的な解釈、つまり騙すとか嘘をつくといった少年に対する批判的な観方を一蹴、「かまって欲しいという寂しさ」(一回生・濱瑠美さん)を基調に、その「かまう」内容というか、かまい方を「何回も嘘をついた少年の心のありように耳をすまし、寄り添ってあげる人はいなかったのでしょうか」(二回生・黒瀬那智さん)から、「どうして嘘をついたのかを考えてあげる必要があった」(二回生・田島千聖さん)などと多彩な言い回しで説かれ、大人(村人)たちの放任・無責任を弾劾しておられる。何をおいてもまず、女性らしく子ども(少年)に優しい眼を注いでおられるのがうれしい。

 さて、では私はどう考えるか。学生たちの意見にただ賛成というわけにはいかない。彼女らは少年の寂しさに立脚しているのに対して、私は、少年の行為の裏に、「退屈・倦怠」を嗅ぎ取っている、ということであろうか。一般に女性は「寂しさ」を、男性は「退屈」を基本に感じるものだと私は考えている。「女三人寄れば姦しい」は、寂しさをお喋りで発散させている姿と私には映るのである。そして急いで付け加えるが、これは何も女性蔑視を表わしているのではなく、母親のお喋りがなければ、赤ん坊が言葉をものにするのは不可能だったであろう、というほどの重大な意味を裏に持っているのだ。

 而して、女性の「お喋り」に相当する「退屈・倦怠」は、「女三人寄れば姦しい」等といった生易しいものではなく、「死ぬほど退屈だ」という物騒な成句を成立させるほどの代物なのである。なぜ物騒か。死ぬほどの思い入れがあるなら、人には怖いものはないからである。あえて言えば、すべての悪事(犯罪・放火・殺人)の裏には、「死ぬほど退屈」という退屈感がある、と言っても言い過ぎにはならないのではないか。

 では、この話しから私は如何にして少年の「退屈」を嗅ぎ取ったか。

 私はまず、牧畜(放牧)と農業の違いというものを考えざるを得なかった。つまり、後者は絶えず手足を動かし忙しいのに―だからのんびりはしておられない―、前者は特に体を使うこともなく、比較的のんびりできる。特にこの話では、ほんとうに狼が出てくる恐れはあまりない状況と私には思われるのだ。でなかったら、つまりほんとうにいつ何どきに狼が出てくるかもしれないという状況なら、いたいけな少年一人(だけ)に、大事な財産ともいうべき羊を託すはずはないだろうし、また、ほんとうにいつ何どきに狼が出てくるかもしれないと緊張しておれば、冗談にも「狼が来た」なんて言えるはずがないからだ。加えて、牛や馬ならまだしも、羊とくるとのんびりした感じがいっそう強まる。

さよう、少年は寂しかったのではなく、退屈し切っていたのである。仕事と言えるのかどうかもわからないような羊の番が、面白くなくて参っていた。つまり、少年は「退屈」というイジメにあっていたのだ。もちろん、少年が才気煥発な子であれば、いっそう退屈・倦怠感は強かったであろう。少年は「退屈」というイジメに対して大声を上げた。少年は三度「狼が来た」という、ある面では嘘かもしれないが、大声を上げた。なぜ大人(村人)は、最初の嘘で子どもと向き合わなかったのか。なぜ嘘をついたのかを明かそうとしなかったのか。いやそれよりも、本来なら嘘をつく前に子どもの本質を見抜くような大人でなければならない。子どもの方から仕事が退屈で死にそう、と訴えてこられるような大人でなければならない。さよう、世の一般のイジメに対しても大声を出す教育・訓練を施さなければならない。(教室で、イジメだけでなく、嫌なことをされたら、大声で叫ぶ練習をさせるのだ。大声はスポーツの専用語?ではないのだ)。そして、その声を耳にした人は、何をおいてもその場に駆けつける、といった新しい社会生活の様式を作り上げるのだ。さらに、いじめっ子もいじめられている子も、双方にためになる結果が生じるのだ。

以上、私信ではありますが、本欄にふさわしいと思われる内容については、プライバシーに配慮しつつ、今後とも今回のように抜粋・掲載していきたいと考えています。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://yamato-mahoroba.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/580

コメントする