2014年2月アーカイブ

変動する時代に生きる人間形成をめざして

―心理臨床の立場から―

真栄城 輝明

(奈良女子大学)

 

 【はじめに】

 第37回日本内観学会(鹿児島)大会が今年の61315日に開催されることになっており、14日(土)には表題のテーマのシンポジウムが予定されている。そこで、準備委員会は大会長名で「臨床心理の立場から、心理治療の視点から、内観法または内観療法を基にした人間形成について論じていただきたい」という趣旨のシンポジウムへの招聘状を送ってきた。

きわめて時宜を得たテーマだと思われたし、私にとっても関心のある内容なので引き受けることにした。しかしそこには、テーマ成立の経緯はもとより、他のシンポジシトについての紹介があるわけではなかった。そこで、私自身の立場を明瞭にするためには、テーマの解題から始めることにした。

 

【テーマ解題】

, 変動する時代

日本の歴史を振り返ると、変動の連続であった。とりわけ自然がもたらす変動は大きい。一番記憶に新しい変動は、2011311日に発生した東日本大震災であるが、地震国であるこの国では、1885年に地震計など観測網の整備が開始される以前から大震災が繰り返し発生してきた。そして、そのたびに多くの命が犠牲となり、「生きる」ことの困難さを思い知らされてきた。実際に演者は、今回の大震災の後、被災地に赴いてはじめて自殺者の多さを知り、驚いた。「変動する時代」は、「生きること」が困難になるということを改めて知ることになった。

, 生きること

普段の生活で「死」について考えている人は、殆どいないだろう。「人は死んだらどうなるのか?」などと考えていては、日常生活に支障をきたすことになるからである。日々の生活では、むしろ「今日の夕飯は、何を食べようか」などと暮しているのがふつうである。ところが、大病を患い、震災に遭遇したとき、人は命に限りがあることを知る。

すなわち、人は「死」の影を感じたり、直面したとき、真剣に「生きる」ことになる。

, 人間形成をめざして

 手元の大辞林(三省堂)によれば、形成とは「整ったものにつくり上げること」とある。そうなると、「人間形成」とは「人間として整ったものにつくり上げること」という意味になろうか。では、人間として整うには、どうすればよいというのだろうか?

当日の話題の一つにしたいと考えている。

, 「臨床心理学」と「心理臨床学」の相違

 案内状には、「臨床心理の立場から」とあったのを「心理臨床の立場から」に改変させてもらった。両者は似て非なるからである。「臨床心理学」は、基礎心理学(実験心理学、認知心理学、生理心理学など)の応用心理学である。ところが、「心理臨床学」は必ずしも基礎心理学だけを応用するものではない。確かに応用心理学の一つではあるが、基礎心理学に止まらず、隣接する医学(精神医学、精神病理学、心身医学、精神薬理学など)で得られた知見を取り入れるだけでなく、他分野(哲学、人類学、社会学、言語文化学、歴史学、文学、スポーツ学など)からも多くを学びつつ、人々の健康と福祉に役立つことを目的とした学際的分野の学問として位置づけられている。

というわけで、当日は「心理臨床の立場から」発言しようと思う。

2年前に集中内観を体験されたSさんは、その後も定期的に短期内観(1泊あるいは2泊)に通ってこられ、自宅では日常内観を続けているようですが、「侏儒の言葉」を閲覧して、「罪悪感」について思うことがあったらしく、以下のようなメールを送ってこられました。

 

法でも親の教えでも、罪は禁を破ってはじめて生まれる。「罪の文化」は、罪を犯してしまったことへの自覚から始まり、「恥の文化」があるとするならば罪を犯す行為自体を恥じる文化と理解すればよいのだろうか。力が回避の方向に働くので、たとえ罪を犯したとしても罪の意識自体は希薄になるのは否めない。

「罪」が、「意識ある罪」と「意識されない罪」に分類できるとするなら、盗みや殺人などのように目に見え、時には人(法)によって裁かれる罪に比べ、本人も知らず識らずのうちに犯すことになってしまった罪は、第三者から指摘されたり、裁かれる事は滅多にない事に違いない。「罪悪感」を覚えるという意味では、前者では自覚しやすく、後者では時には全く自覚のない事態も起こりうると想像できる。

内観をするようになって最近の大きな変化は、これまで意識に上ることのなかった罪を認め罪悪を感じるようになった事だ。きっかけは、息子の気持ちを無視してきた自分に気づいた時だった。 見返りを求めず純粋に息子のためにできることはないだろうかと考えた末、毎日朝晩5分の時間を設けて祈る事にした。いざ始めるとたった5分の間に雑念ばかりが先行し集中できない。そこでまずは懺悔から始め、感謝し、無事を祈ろうというふうに順番が決まり文句(呪文)が生まれた。

「私はかつて、息子の気持ちに全く気づかず、息子の心をひどく傷つけました」

それから今日の無事を感謝し明日の幸せを願った。祈りは内観そのものでもあった。

一週間ほども経つと、一つのお題目から過去の様々なシーンが具体的に思い出されてくる。ある日、幼い息子の純粋無垢な眼差しが現れた。その瞳は無心に母を信じ、励ましてさえいる。その瞳に出会ってはじめて本当に取り返しのつかない事をしてしまったという後悔の念とこれまでにない深さでの罪悪感を覚えた。  罪はもとより存在していたのに、気がつくためには相当な時間を要していた。内観をしなければ閻魔大王の御前で最後の審判が下されるその時まで、気づこうとさえしなかったに違いない。

内観をしていて幼い頃の息子の瞳は、そのまま少女だった私であり、無心に信じた両親への思いは、40年の時を経て、やっと親らしくなった自分がいて、それらを受け止めることができたのだと思う。

自分の犯した罪と向き合うことはとても辛い。罪悪感は良心を呼び覚まし、謙虚さをもたらしてくれるようだ。二度と同じ過ちを繰り返すまいと決心する時、罪悪感の中には世の中をよりよくする智慧が隠されているように思われた。

後期の最後の授業(家族臨床学特殊研究・臨床心理学特論)では、「怒り」がテーマでしたので、学生たちに「怒りの対処法について」レポートを課してみました。本欄への掲載を承諾した学生のレポートの一部を紹介してみたいと思います。

 

「怒りでイライラした時には、とりあえず、食べます。甘いのが好きなので、何も考えずにクッキーとかたくさん食べて、『おいしかった、満足』と思えると何となく落ち着きます。そうすると、自分が何にイライラしていたのか、どうしたらよかったのか考えられてあまり気にせずに明日からまた頑張るかと思って寝ます。」(A子)

という風に怒りを感じたら甘いもの(クッキーやケーキ、あるいはチョコレート)を食べて落ち着くという複数の女子学生がいました。酒が飲める成人男性なら大酒を飲むといったところでしょうか。2回生のB子さんが、父親のことを紹介してくれました。

「私の父は、怒りを消化するのが苦手のようです。怒鳴ったりはしないのですが、いつまでもグダグダとその状態が続きます。母・兄・私は割と怒りの消化は早く、怒鳴るとあとはすっきりして"まぁ、いいか"と思えるようになります。冷静になりさえすれば普通の態度がとれるようになります。腹が立った時は、大声を出すことはかなり効果があると思います。」

一方、2回生のS代さんの解消法は、B子さんとは真逆で、「怒りの感情は、自覚したうえで、ひとまず抑えるべきだと思います。怒りの感情に任かせて言葉を発してしまうことは、相手のことも自分のことも傷つけてしまうかもしれないので、とても危険です。感情的になっている状況で冷静な話し合いはまず不可能だと思います。なので、自分が何故、何に対して怒っているのかということ状況を正確に把握する、ということを第一にすべきかなぁと思います。」というものでした。

また、同じ2回生のSさんは、この時代を象徴する方法で怒りを解消しているようです。「わたしはどうしようもなくイライラしたとき、ツイッターにたらたらと文句を書いてしまいます。現代っ子ですね。イライラの原因が他人であってもその人に直接言えず、誰が原因かわからないような書き方で不満をツイッターに投稿してしまいます。なんとなくすっきりします。数時間たつと関係ない人がこれを見て気分を害しているんじゃないかと思って、削除することもあります。まt、すごく親しい人に『今日こんなことがあって、めっちゃムカついた!』とぐちゃぐちゃ言うこともあります。『そんなに怒るなよ』でもいいし、『あーわかるー』でも反応してもらえると、スッと心が軽くなります。怒りだけでなく、心に抱えていることを打ち明けて、誰かに反応してもらうと解決する気がします。ツイッターでもよいですが、やはり面と向かって話を聞いてもらってアドバイス等もらうことが私はいちばん怒りの感情に対処するにはいいかなぁと思います。」

 ところで、深刻なのはまったく怒りの感情を感じないという人です。

 3回生のHさんもその一人です。「私は他人に怒りを覚えたことがありません。兄弟とはよくケンカをしましたが、他人には一度も怒りを感じたことがありません。」と書き出しているので、これは心配だと思って読み続けてみましたら、レポートの中盤に「わたしは小学3~4年生のとき親しかった友人からいじめをうけました。シューズを隠されたり、無視されて口をきいてもらえなかった。私に中でそのいじめは大きな体験として残りました。常に周りの様子をうかがい、周りの要求に従うことが自分のすべきことだと思ってしまいました。周りの要求にこたえるために自分はいるのだから怒るなんてもってのほかだという考えがありました。そして、自分が嫌いになりました。自分でも嫌いな自分なのでそんなやつが他人に対して怒る権限なんてないと思っていました。」というのです。

そして、そのHさんがレポートの最後にこう綴っているのが印象に残りました。

「怒ることは良いことではないかもしれないけれど、怒りも悲しみも含めて表現できないことが一番苦しいのではないかと身をもって感じております。」と。

昨年の暮れに中国は上海から国際学会への招聘状が届きました。それによれば、4月17日に上海に入って、翌日(18日)は上海精神衛生中心において、午前中(半日)を使っての講演を行い、その翌日の19日は、上海海洋大学を会場に国が予定されているので、そこでも講演を行ってほしいとの依頼です。当日の大会のテーマは「文化と心理治」なので、それに沿ったテーマで話してほしいというのです。そこでまず、準備の手始めに東洋文化から生まれた心理療法について調べることにしました。

 目下、いろいろな文献に目を通していますが、1993年の第16回日本内観学会において中国医科大学心理教研室の李鳴杲氏が「現代中国の心理療法の現状」と題した招待講演で述べた中に興味深い内容がありましたので、本欄にも掲載しておこうと思います。

   

李氏は、「2,200年前の本、『黄帝内経』の中に『素問、五運行大論』」というのがあるらしく、そこから一部を紹介したようです。それによれば、古代中国の心理療法では、ある種の感情は、別の感情によって抑えたり、鎮めることができるという考えがあったようです。たとえば、いくつかを紹介するとこうです。

怒傷肝(怒ると肝臓に損害を受ける)には、悲勝怒(悲しむことで怒りを鎮める)

喜傷心(喜びすぎると心臓を傷める)には、恐勝喜(恐がることで喜びを抑える)

思傷脾(考えすぎると脾臓を悪くする)には、怒勝思(怒ることで考えすぎないようにする)

憂傷肺(心配しすぎると肺を悪くする)には、喜勝憂(喜ぶことで憂いを軽減する)

恐傷腎(恐怖があると腎臓を傷める)には、思勝恐(考えることで、恐怖を排除する)

 

 ところで、フロイト(1856 - 1939)の精神分析学では「鬱の背後には、怒りが潜在する」とされていますが、中国では紀元前にすでにそれと同じ考えがあったというのです。李氏が紹介してくれた事例がありますので、紹介しておきます。

  春秋時代(BC770BC403)、斉の閔(Min)王は、考えすぎて鬱病になり、長い間治らなかった。そこで、高名な医者・文贄(Wenzhi)に治療を依頼。文贄は「王を怒らせなければ治らない」と王妃と王子にいい、「但し、国王が治ったとき、私の命が危なくなるのが怖い」と言うので、王妃と王子は、文贄の安全を保証した。そこで、文贄は王を怒らせることに取り掛かった。まず、王様が自分を王城に自分を呼び出すよう王妃に頼んだ。そして、呼び出しがあった。一回目、二回目、三回目とことごとく無視して出向かなかった。ようやく、四度目に王の命令に応じて王城に赴いた。しかし、彼は王の前でひざまずかず、靴も脱がず立ったまま、横柄な態度をとった。これをみた王はとうとう我慢が出来ず激怒し、怒りのあまり血を吐いてしまった。以来、王は鬱から脱し、病気は治った。

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