2014年8月アーカイブ

佐保鹿子(仮名)

 

内観を知ったのは大学の先生の紹介でした。はじめはどんな所かも分からず自分にプラスになるなら、という気持ちでカウンセリングに行きました。その時点で勧められたのが集中内観でした。しかし、その時は彼氏と会えなくなるのが嫌で集中内観を断りました。暴力を振るう彼氏の問題を直そうという気で始まった話が、内観に来て、自分自身が恋愛依存症であることに気づかされました。その後、毎週カウンセリングに通い、自分の気持ちをわかってくれるのは、ここだけだったので、話をきいてもらいにいって、彼氏に会いに行く、といった、日が続いていました。心ではわかっていてもなかなか会わないというところまでは、決心できませんでした。しかし、一ヶ月ほど前から夏休みには集中内観します。といってしまい、話もどんどん進み、学校の先生にも集中内観をしなければ単位はなしです。といわれ、自分では決心できなかった集中内観にいくきっかけをたくさんの方につくっていただきました。集中内観をはじめて、一日目や二日目は彼氏から連絡が来ていないか、こんなことをしていて意味はあるのかなど、不満ばかりで、後何日で帰れるのかと数えてばかりでした。そんな気持ちで進めているにもかかわらず、三日目に自分に対して驚く発見があり、あ、すごい!内観おわり!と自分の中で満足していました。四日目には本当にもう帰ろうと思っていました。でも、せっかく予定もあけ、周りにも一週間泊まり込みでいくと言ったので、裏切れなくてとりあえず、あと3日頑張ろうと決めました。五日目に自分のお守りのようにもっていた、彼氏にもらった指輪をなんのくいもなくはずすことができ、六日目に彼に対する怒りがあふれてきて、紙に書き出しました。怒りを書き出してスッキリすると思っていたけど、何かモヤモヤが残りあと1日しかないのに、このままかえっていいのかと思っていました。最後の面接で彼に対する手紙を書いてください。といわれ、出会ってからを思い出して書いているうちに怒りは消えていることに気づき、ただ、ありがとう言う気持ちばかりで、でも、彼氏のところには戻ろうとはならず、きっぱり別れの手紙を書くことができました。集中内観後、彼氏のところにいってしまう自分はいないかとても不安でしたが、そんな気持ちは全くなくバイトも自由にたのしめ、プライベートでもたくさんの友達と遊べ、生活リズム、家族仲も以前に戻り、楽しい毎日を過ごすことができています。あんなに帰りたいと思っていた日々を乗り越え、いま思えばたった一週間でここまで変われたことはほんとによかったと思い、支えてもらった周りの方に感謝しています。これからもカウンセリングをつづけ同じ繰り返しをしないようにしたいと思っています。

来る1018日に開催予定の日本内観医学会奈良大会では、「内観療法の国際化にあたって直面する諸問題をどう乗り越えるか」というシンポジウムを企画しています。シンポジストの一人、長崎大学の小澤教授から当日の抄録原稿が送られてきましたので、本欄にも紹介したいと思います。

小澤寛樹

長崎大学大学院 医歯薬総合研究科 精神神経科

 

日本で開発され世界中に流布した「カップヌードル」が、各国オリジナルの風味に開発・変容し、それがまた日本に逆輸入され、多様な味が地球上のあらゆる国と地域で販売されている。このように全世界を同時に巻き込んでいく流れであるグロバリゼーションと、地域の特色や特性を考慮していく流れである現象をグローカリズムという。「地球規模で考えながら、自分の地域で活動する」のキャッチフレーズで語られることもある。

すなわち、日本に於ける少子高齢化の問題、或いは地域医療や経済、社会等で生じる様々な葛藤状況が、実はこのグローバル化の流れと密接に連関している事に気づかされる事となった。そしてその問題を解決する上でも、又助長する上でも世界と地域社会が密接に関連するという、つまり「グローカリゼーション」と呼ばれ最近指摘される、極めて特殊な世界構造が今後数十年継続する事が容易に想像される。言い換えれば、世界の状況がリージョナルな状況に容易に反映するという事でもある。

では、こういう世界構造が人間個人の精神状況にどのような影響を与える可能性があるのか。過去の例で言えば、文化が人間の精神にどういう影響を与えるかは多く語られてきた。日本では日露戦争以降、神経衰弱が社会的に注目され、精神分析の概念が庶民化するなかでヒステリーが世間に流布されていき、その後現代型うつ病に至るまでさまざまなこころの変遷の歴史がある。グローカリゼーションが我々の精神構造に与える影響、或いは新たな精神疾患の出現などの予兆が既に出てきていても不思議ではない。時折しもDSM-5ICD-11が新たに編纂され、新しい精神疾患概念も形成されつつある。このような概念形成の背景には近年のニューロサイエンスの進展も深く関わっているように思われる。エビデンスを基にした医療が説得力をもち、精神療法の領域においても認知行動療法が世界の趨勢になっている。しかし、この100年間を振り返ってみても、精神疾患の流行が存在し、それにともない、診断、治療法の変化がし続けている。日本の文化的背景から熟成されてきた精神療法がこのグローカルの世界観の中で今後どのように展開していく可能性があるか、討論できれば幸いである。

表題は、内観研究20号へ「論点」として投稿した小論の一部です。全文を読みたい方は、内観研究をご一読いただければ幸いです。

真栄城輝明

(奈良女子大学・大和内観研修所)

 

要約

最近、10年来の検討課題であった「内観面接者(師)資格認定制度」がようやく動き出した。新たに「資格認定委員会」が設立され、ある程度の素案作成までは漕ぎつけた。今後は、それをどのように具体化していくかが問われている。その委員会の委員長を仰せつかった身としては、この問題の歴史を振り返る必要を感じた。小論は、それにまつわる諸問題を振り返ることによって、「資格認定制度」のあり方を今一度、会員諸氏にも考えてもらうことを狙いとしている。

【はじめに】

 資格とは何か。手元のデジタル辞典によれば、「あることを行うのに必要な、また、ふさわしい地位や立場」と並んで「あることを行うのに必要とされる条件」の二つが併記されている。前者の文例として「理事の資格で出席する」とあり、後者は「税理士の資格を取る」が示されている。では、内観面接者(師)の場合は前者と後者のどちらがふさわしいのだろうか。後者の税理士は「国家資格」であり、それは法律に基づいて国や国から委託を受けた機関が実施する資格のことである。その特徴は、業務遂行のための業務独占資格ということになる。

ところが、内観面接という業務については、それを独占する資格があるわけではない。ありていに言ってしまえば、誰でも内観面接という業務を遂行できるということである。つまり、誰でも自由に「内観研修所」を開設できるというわけだ。しかし、全くの素人(たとえ内観体験があるにせよ)にとってそれほどたやすいことではない。

一方、現実に「内観面接」という業務を実践している場としては、たとえば医療機関がある。そこで行われている「内観面接」は「内観療法」と呼んで、医師や看護師という国家資格所有者が業務を担当していることが多く、外見上はまるで業務独占資格者によって業務が遂行されていると思われがちであるが、民間資格の臨床心理士でも医師の管理のもとで内観療法(内観面接)という業務を遂行しているケースがある。その臨床心理士は、国家資格ではないけれども名称独占資格として位置づけられている。名称独占資格の特徴は、資格がなくてもその業務に従事する事はできるが、資格取得者のみが特定の資格名称(肩書き)を名乗ることができ、資格を所有していない者がその名称を名乗ることは禁じられている。いわゆる特定名称というわけである。

さて、内観面接者(師)という資格を考える際に、そのどちらを目指すことになるのか、あるいは、どちらでもない新たな資格として考えていくのか、すぐに現実的な問題に直面することになろう。先に内観研修所の開設は、誰でも自由にできると述べたが、その結果、様々な問題が発生してきた。その詳細については、2005年に発行された本誌の第11巻第1号が倫理問題を特集しているので、そこに譲ることにして、小論では表題の「内観面接者(師)資格認定制度」をめぐる問題に焦点を絞って述べることにする。

17回日本内観医学会奈良大会が1018日に奈良女子大学の佐保会館を会場にして開催されることになりました。大会テーマは、「内観療法の新たな可能性を探る」となっており、それに関するシンポジウムが予定されております。そのシンポの指定発言者にユング心理学者としてご活躍中の秋田巌教授をお招きすることができました。秋田教授から送られてきた抄録用原稿の一部を本欄にて紹介したいと思います。

 

京都文教大学 秋田 巌

 

 ユング心理学を日本に導入したのは河合隼雄である。ユング心理学において主に用いられる技法に夢分析がある。本家西洋における夢分析においては、夢の解釈が重視される。どのような意味を持っているのかが徹底的に探られる。ところが、河合は「もの言わぬ分析」とでも言うべきものを創始した。クライエントの夢を聴くことに徹して、解釈をほとんど或いはまったく行わないのである。同じく河合がスイスより持ち帰った箱庭療法においても事はまったく同様で、クライエントの作った箱庭に解釈を施すのではなく、共に深く味わうことを重視する。

 内観療法において夢を聴く、という試みがなされ始めているようである。内観療法と夢分析、まったく違った土壌から発生した二つの技法が内観療法のなかで融和し始めようとしている。夢を聴くにはそれをするにふさわしい態度が必要である。その態度とは、夢という無意識に由来するイメージ、つまり深層イメージを聴くにふさわしいだけの深みが要求される。夢分析においてはその夢の持つ深みに身をゆだねていく能力が問われる。

内観療法における治療装置、屏風で区切られた半畳ほどの空間。その空間の持つ密度。究極にまで自分と向き合わざるを得ない場。このような治療空間の、いわば発明は瞠目に値する。この創意工夫に想いを馳せるとき、これはすごい。装置としてはすでに夢分析空間の深みを超えている。この「場」の深みは、茶室や座禅堂など、日本の生み出してきた特有の閑かさと深みを伴ったものの歴史の上にあるのか。この「歴史」をうまく活かしている「場」であろう。それは夢分析を可能とする力を十分に備えた「場」でもあると思われる。そして、内観療法における夢分析の知見は、夢分析を主たる技法とする分析心理学(ユング心理学)にも豊かな知を提供していただける可能性がある。

本文は、『臨床心理学』第14巻第5号(金剛出版)からの依頼でしたためた一文です。

 

日本人における「罪と恥」

―「東洋思想と心理療法」研究会に参加して―

真栄城輝明(奈良女子大学・大和内観研修所)

 本文の主題(テーマ)は、筆者の発案ではなく、編集部からいただいたものです。

平成2667日は、前夜からの雨が降り続いていた日で、参加者の出足を気にしつつ、第15回目の表題の研究会は開催されました。1999年に産声を上げた同研究会は、「東洋思想の眠れる知慧の発掘という作業を通じて、心理療法のさらなる発展の一助にしたい」(下坂幸三)という考えのもとに発足されたようです。今回、会員でもない筆者が参加したのは、世話人のお一人である中村伸一先生に声をかけていただいたことによります。

会場の駒澤大学中央講堂は、雨天のために午前中の出足は今一つでしたが、午後からの特別講演(「愛と恥と罪」をめぐる話―内観点から―)や表題のテーマによるシンポジウムが始まる頃には、参加者も増え、会場は熱気を帯び、熱心にメモを取る姿まで見られました。ここには、シンポジウムのなかから印象に残った言葉を紹介しようと思います。

シンポジストは、精神分析の高野晶先生、仏教学の爪田一寿先生、家族療法の中村伸一先生、指定発言にはこの世界で高名な西園昌久先生を迎えた豪華な陣容で行われました。

高野先生の言葉で最も印象的だったのは、「治療者は患者の罪と恥を分析するだけでなく、自分自身の罪と恥に向き合う必要がある」という一言でした。西園先生も指定発言のなかでこの言葉を取り上げて、高く評価したうえで賛意を示されました。

次いで、爪田先生が親鸞の言葉を引用して「煩悩こそ、人間の心の本来的なあり方で、清浄な悟りの心は自分の内にはなく、外から弥陀によって与えられるしかない。それは純粋な贈与である」と述べたとき、筆者の脳裏に浮かんだのは拙著にも記したことのある「近代科学から生まれた西洋医学は、いまだに『自然治癒力』について解明できずにいる。その自然治癒力を体の中に見つけようとする限り、解明するのは難しい。なぜならば、自然治癒力なるものは、体の中にあるものではなく、体の外、場にあるものであり、それは虚空まで広がっている、それがスピリットなのだ」という言葉でした。

3人目の中村先生は、1980年代に多発した「家庭内暴力」に対する家族臨床の経験から「家庭内暴力」が発生しやすい日本の特徴を『世間体』『甘え』『我慢』の三つのキーワードで解説されました。さて、指定発言者として登壇された西園先生は、御年82歳を迎えてなお進取気鋭な精神に衰えはなくますます健在で、印象深い言葉の数々を発せられました。紙幅の制約のため23の紹介にとどめます。「日本人の罪は他者への迷惑だが、西洋における罪とは、神に背を向けることを意味する」「現在の日本の患者には、以前と比べて、罪意識はそれほど強くない」「正直になれるかが大きな課題であり、正直になることで罪から解放されるという考えが自由連想法にはある」など。

筆者の特別講演に、事務局長の岡部先生から「愛」に着目したコメントが寄せられましたが、紙数が尽きたので割愛します。 

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