2015年1月アーカイブ

DV被害からの回復の試み

―(内観カウンセリングを援用して)―

真栄城輝明

(奈良女子大学研究院生活環境科学系)

 

要約:本論は、DV被害からの回復のために内観療法を援用した試論である。被虐待者やDV被害者においては心的外傷のために虐待者や加害者のことを考えるだけで精神的に動揺をきたし、問題と直面することが難しくなることが少なくない。しかし、回復のためにはそれと向き合う必要がある。そこで、1週間の集中内観に加えて内観カウンセリングと筆者が呼んでいる「内観+カウンセリング」という方法を援用したケースについて若干の考察を加えたところ、DV問題の回復にあたってのキーワードは、「愛の発見」のようである。

 

キーワード:DV被害・内観カウンセリング(NC)・集中内観・日常内観

 

Ⅰ はじめに

 筆者の心理臨床は、アルコール関連問題(addiction)を対象にスタートを切った。1977年のことである。アルコール依存症を抱える家庭では、酩酊時の身体的、精神的暴力が問題となることが少なくない。また、クロス・アディクション(cross addiction)といわれる見かけ上は異なる依存症と思われがちな2つ以上のアディクションが同時に、あるいは継時的に発症することもしばしば見られる。たとえば、アルコール依存と共依存、摂食障害と窃盗癖(kleptomania)、薬物依存とセックス依存などのように合併しているのであるが、当時はそこに暴力が発生していても重要視して来なかった。振り返れば、援助者として深い反省の念がこみ上げてくるが、アルコール依存症の場合、依存症者本人が断酒さえすれば、これらの問題は次第に消えていくであろうと考えていたきらいがある。ところが、アルコール依存の状態を脱却し、いったんは治療を終結したはずのケースの中に「Domestic Violence (以後、DVに略)」を主訴として再び援助を求めてきたケースに遭遇することがあった。DVの被害者からで、2000年前後のことである。その頃から児童虐待と共にDVの問題が注目されるようになり、200110月に通称「DV法」が施行されてからは、被害者だけでなく、加害者の来談者も現れるようになった。両者の回復過程に立ち会っていると、目の前の加害者が、かつて被害者として心理的トラウマを抱えていたり、あるいは被害者として来談してきたクライエントに、かつてわが子を虐待してきた過去を持っていることが判明することもしばしばであった。ひとくちに「DV被害者」とか「DV加害者」と呼んで、両者を区別してみる傾向があるが、内実はそう単純ではないことを知らされたのである。ここでは、DV被害からの回復に際して、被害者自身の内省(集中内観+内観カウンセリング)を中心に行われた事例を取り上げて考察することにしよう。

集中内観において流される涙の心理臨床学的理解の試み

 

○松本愛弓 北野留美 真栄城輝明

奈良女子大学

 

問題と目的人が流す涙の意味や種類は大人へと成長していく過程において多様であるが、近年の人の泣き行為の特徴の一つとして「涙活」2014という活動の広まりが挙げられる。これは、映像を見たり朗読を聞いたりして能動的に涙を流し心のデトックスを図るという活動であるが、涙を意識的に流すものとして捉える傾向が強まっていることが窺われる。では、これまで「泣き観」とも揶揄されてきた内観において内観者が流す涙にはどのような意味を見出すことができるだろうか。本研究では、集中内観体験者を対象にアンケート調査を実施し、内観者が内観中に流した涙をどのように捉えているのか、またその背後に心理的変容は見られるのか、見られるとすればそれはどのようなものかについての様相を明らかにすることを目的とする。

 

【方法】調査対象者は、A内観研修所において集中内観を体験した男性11、女性12名の計23 名である。①日常生活における泣きの経験、②集中内観中における泣きの経験についての自記式質問紙調査用紙を内観終了後(最終日)に配布し、文字数は指定せずに具体的記述を求めた。質問項目については調査者が独自に作成したものを用いた。調査期間は20145月~201412月であった。

 

【結果と考察】まず始めに、内観中の泣き行為の有無に関する問いに対して「あった」と回答した人は23名中21であった。このことから、内観の場では比較的涙を流しやすくなっていることがわかる。泣きの理由については各人の内観の内容と関係があり、複雑に絡み合った感情を抱いているようであった。特徴的であったのが、泣いている最中の気持ちとして「申し訳なさ」「感謝」を一度に挙げている人は、泣いた後の気持ちにおいて「すっきり」「楽になった」などポジティブな表現が多かったのに対し、「申し訳なさ」のみ、あるいは「情けなさ」という気持ちを挙げていた人は、泣いた後の気持ちとして「気が引き締まる」「もやもや」など、自身を奮い立たせるような表現や心にしこりが残るような表現が多かったということである。泣きの最中に少しでもポジティブな感情を抱いていると、涙を流すことのカタルシス効果がもたらされるのかもしれない。このことから、涙を流したことそのものではなく、その泣きの最中にどのようなことを感じていたかという点に注目することが大切であることがわかる。

また、内観中に泣いたことへの意味づけからは、「心の浄化」「新しいものが入ってくる」など、心の空気の入れ換えが行われているかのような様子や、「自分の心の中にある何かの存在を知らせてくれる」「自分と向き合えた」など、気付きや洞察が得られている様子が窺われた。加えて、「深く記憶に刻むため」というような、涙が一種の刻印のようなものとなっている様子も窺われた。このことと関連して、久保(2012)は、自分の内面に目を向けるべき時に、涙は我々を外界から切り離し内省的にさせるのではないかと指摘している。視界がぼやけることで物理的にも外界から切り離された状態になるが、涙はあらゆる感情の発露となりうるため、泣いている本人にしかその理由がわからない、あるいは本人にもわからないかもしれないという曖昧さを孕んでいることが、より自分の内面に目を向けやすくさせているのではないだろうか。(紙面の関係により、その他の考察については当日に報告したい。)

最後に、アンケートに対する感想として「紙に書くことによって安心しました」という回答も見られたが、泣き行為は自分の内側に相当なエネルギーを向けることになるため、心に大きな負担をかけてしまうことにもなる。内観者自身に泣き行為を振り返ってもらうことにどのような意味が見出されるのかという点について、その負の面も考慮しながら今後さらに検討を行っていきたい。

 

【参考文献】

1)久保陽子(2012).内観における「涙を流すこと」の意味―モーニングワークの観点から―,奈良女子大学文学部卒業論文,1-25

2)寺井広樹(2014).泣く技術 PHP文庫

3)松本愛弓(2013).不意に<泣くこと>における原因探索と意味づけ,奈良女子大学文学部卒業論文,1-25

母親からの返信

 

学生のレポートを本欄にて紹介したところ、それを母親が見てくれたらしく、以下の太字で示したメールが届きました。そこで、お母様に本欄への掲載を打診したところ、「ブログの件ですが、ご迷惑でなかったらお使い下さい。見返すとひどさに赤面の至り、嬉しさの余りについ学生気分でお恥ずかしい限りで,..... しかし今年のお正月のよき思い出になります。」というお返事を頂きましたので、紹介したいと思います。

また、ある学生の祖父母は、孫娘のレポートを読んで以来、本欄をお気に入りに入れて、時々アクセスいただいているようです。本欄が親子だけでなく、孫と祖父母のつながりにも役立っていると聞いて、うれしい限りです。

 

拝啓

松の内も過ぎ、厳しい寒中のお見舞いを申し上げます。

今朝は、侏儒のことばを拝見しました。娘の勉強の成果が感じられ嬉しい事でした。

奈良へ戻る前夜は徹夜の話し合いになり、「簡単に帰って来ないように」と少し強い物言いもしたので心配もありましたが安堵いたしました。

娘(静佳)の短歌が心の響きましたので、あやかって

 

【死生観】

今生の  これが最後の  呼吸なら  その一息が 果てるまで  心の眼で  観つついきた

【結婚観】

微笑んで  愛し愛され 寄り添って

 

【子育て観】

受け継ぎし  悲しみの種  育みつ  しずかに咲くらむ 春遠からじ

 

                            佐藤章世拝

 

佐藤静佳

(奈良女子大学研究生)

 

子育て臨床論特殊研究を受講した感想

 子育てというのは子供を持つ親やその家族、幼稚園や保育園、小学校等で子供と接する職に就いた人達の考えるべき話であり、結婚していない、教育者にもならない私にとって関係のない話である、と考えていました。そんな私は今まで人の成長に関して、高校時代の生物や保健の授業で習った程度の知識しかなく、自分の子育て観についてただ漠然と「自分が母にやってもらった分はかえさなくてはいけないよなあ」と思っていただけでした。

 この授業を受けて感じたことは自分がどうありたいのかということを考えることの大切さです。子供を生む方法、専業主婦か否か、結婚に求めるものは何か等、授業で扱わなければ真剣に考えることはないまま適齢期を迎えていたかもしれません。自分のことに責任を持つ、自分が幸せになる、それが達成されてはじめて人の幸せを考えることが出来るのではないか、と考えるようになりました。今までの自分は「どうしたら家族は幸せになるのだろうか」と考えているばかりで、その中に「自分」が入っておらず、私抜きの構成員による家族の幸せばかり考えていました。いつも周りだけを優先していた思考回路に今後は自分を含めた回路に修正していくことが重要であるなと考えています。

  自分の意見を持つ、この授業ではその方法を学べたようにも思います。この授業では毎回多種多様な意見を聞くことが出来、尚且つ先生にも教示していただけます。そして毎回最後に自分の意見をレポートにすることで終わるのです。この周りの意見を聞きつつ、自分の意思をもつということがどれほど重要なのかということを再確認することが出来ました。

 自分の家族観、死生観、子育て観などを今一度深い学びが出来、それを同世代の人たちと共有できたことがとても有意義でありました。

川柳・短歌

【死生観】

・生きていく つまりそれは 死んでいく

・死にたいと 辛くなるたび 思うけど 願いは一つ 幸せになる

【結婚観】

・配偶者 求めることは 歩み寄り

・生い立ちも 趣味も特技も 違うけど せめて合いたい 歩みのペース

【子育て観】

・子は見てる 親の良いとこ 悪いとこ

・静佳の名 由来を聞いた 幼き日 忘れがたきは 母の優しさ

 

集中内観療法における面接者の存在意義

--内観者の視点を中心に--

○盧 立群1) 森下文1) 真栄城 輝明2

1)奈良女子大学大学院博士後期課程  2)奈良女子大学生活環境科系教授

 

【研究の動機】

 「内観では、面接指導が原理的に必要はないのかもしれない」という見解がある(武田,1974)。果たしてそうだろうか?これが本研究の動機である。口頭発表者である盧自身は、それを確かめるべく、面接者なしの集中内観を体験することにした。具体的には、集中内観中に屏風には籠るが、面接なしで内観三項目に添って調べたことをノートに記録するのである。つまり、面接者は朝いちばんには来るが、通常の内観面接はせずに、「今日の内観はどなたに対する自分を調べるつもりですか?」と内観者の予定(心積もり)を聞くだけであった。これはすなわち、面接者なしの実験的内観である。食事や食事時の内観テープなどは原法のそれと同じ条件であるが、極力、一人だけで内観を進めてみようと計画された内観である。まさに武田のいう「面接指導者なしの内観」を試みたわけである。しかしその方法での内観は、すぐに躓いてしまった。内観を進めていくにあたって、内観面接者による面接がないと内観を継続することが難しいということがわかった。思い出した内観の内容をノートに記入していったにも関わらず、時間の区切りがつかず、停滞してしまい、雑念の波が押し寄せてきたのである。やはり、内観における面接者は必要であり、その存在は思いのほか重要であると感じた。そこで、内観を継続するために、2日目以降、徐々に内観面接の回数を増やしてもらった。すると、雑念がふり払われて3項目に添った出来事が次々に思い出せるようになった。これがきっかけとなって、内観面接者の意義と役割について研究してみようと考えた。

【問題と目的】

 内観では、内観者と面接者の関係は欧米の心理療法と違い、クライエントと治療者との関係というよりも、師匠と弟子の関係に酷似していよう(真栄城,2005)1週間の集中内観をやり遂げるために、師匠の役割を担う「面接者」は必要で不可欠な存在である。内観における面接者は内観の治療構造として重要な役割を果たしていると言える。これまで内観面接者の役割に関する先行研究は、多くはないがあるにはある。たとえば、伊東(2003)は、もし面接者が無く、一日中一人で内観するという状況に置かれれば、内観者の退行が際限なく進む可能性があり、また、他者に対する罪の自覚に結びつくような記憶は、自我にとって苦痛であるため、日常生活では抑圧されていて想起しにくいが、遮断による退行の状態であれば思い出しやすいと述べている。伊東は、面接者が存在することで、内観者の退行を抑制する役割を果たすと考えているようだ。また、1週間の集中内観では、内観者はいつも同一面接者の面接を受けるのではなく、複数の面接者が入れ代わり立ち代わり訪れる。そのような集中内観における面接者の交代は内観者に対して負担をかけるのではないだろうか。このような内観独特の面接者の在り方についてなどを考察することを目的として本研究は企画された。

【研究方法】

 201410月~12月、大和内観研修所の集中内観者(男性6名、女性7名)に、内観終了後に11の半構造化面接を行った。その逐語記録から内観者の語りを手掛かりとして分析した。*調査の同意・個人情報に関する配慮:調査協力の同意が得られた方のみに面接を行い、個人が特定できない形で論文化することの了解が得られた。

【結果と考察】

 結果を先に言えば、今回、インタビューを受けた13人の内観者はすべて内観面接が必要であると述べている。「集中力を高めること」「内観への推進」「時間と内容を区切りにできること」などをその理由に挙げている。また、ノートに記入するのと違い、面接者に聞いてもらうためには、報告内容をまず頭で整理し、次にそれを言葉にし、それを話しながら自分自身も耳にするという3段階を繰り返すことで、内観は深まっていくと考えられる。そしてそれを可能にするのは、面接者の存在である。面接者がたびたび屏風の前に訪れるだけで、内観が促進されよう。面接者の意義を考える際には、内観で行われている複数面接者の存在を内観者はどのように受け止めているのか、面接者の交代が与える影響についても考察を加えたが、紙数の都合で、詳細は当日の発表に譲ることにする。

参考文献

真栄城 輝明(2005).心理療法としての内観 朱鷺書房

伊東 正裕(2003).ストーリー形成の技法としての内観療法--集中内観の体験的研究を通した   

  一考察-- 新潟医療福祉学会誌,3(2)78--88

武田 良二(1974).内観法 禅的療法・内観法 佐藤幸治編 文光堂

 

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